森瑶子の思いで

 小説家の、森瑶子さんが、涅槃に旅立って、既に6年の歳月が経つた。 
 
 パルコの写真展での、 I カメラマンと彼女のトークショウを聞きに行ったときが、彼女と逢えた最後の機会で、その2年後に、彼女は胃癌で亡くなった。 
たまたまカメラを持っていた私が、彼女に写真を撮ってもいいか尋ねると快諾して下さり、「そうよね、あの時代、私達、ほとんど写真なんか、写さなかったものね」と笑った。 

 親しい関係ではなかったけれど、彼女とは、私が17歳の時からの知り合いだった。 昭和30年代半ばの日本が凄く元気だった頃の話だ。 
私はお茶の水にある文化学院英語科の高校生で、自由で希望に燃えた不思議な学生生活を満喫していた。 その頃の私は好奇心の塊で、自分の回りの世界が輝いて見え、可能性に満ち溢れた幸福感の中、人生で一番元気だったように思える。 勉強よりも、学園の側にあるジローというシャンソン喫茶に入り浸り、年上の実存主義者やアーティスト達と、背伸びをしておつき合いするのに夢中だった。 
当時マコと呼ばれていた森瑶子さんは、その頃芸大音楽科の生徒だった。 背が高く、ヴァイオリンを小わきに抱え、思い詰めたような真剣なまなざしで、颯爽と店内を横切り、中庭に面したMの陣取る定席に、それこそ脇目もふらずに歩み寄り、満感の笑みを漏して椅子に座るのだった。 その、全身から喜びが伝わってくるような感情表現がとても印象的だった。 外国映画に見るような、洒落た表現が出来る日本人は皆無の時代だったので、私は熱心に観察したものだ。 
後に当時の事を尋ねると、それは彼女にとって、初めての恋だったのだ。 勿論小さな観察者だった私を彼女は記憶してはいなかった。 
当時子供だった私に大人の世界は魅力的で、邪魔にされない限り、年上の人とばかり付きあっていた。 住まいもお茶の水の橋を渡ってすぐだったので、退屈を紛らわせるためや、待ち合わせに時間のある大人達に、よく呼び出されていた。 憧れの先輩に呼ばれる時は本当に嬉しかった。 
その当時、断然他を引き離して洗練された女性がいた。 仕種のどれもが美しく、煙草をくわえたまま、何の動作をするのにも滑らかな品があり、声だけが低く異質に感じられた。 その人には、良く呼び出された。 そして2時間程、話をするでもなく、ボンヤリと過ごした。 その人を眺めているだけで退屈しなかった。 
その時は気付かなかったけれど、数時間過ぎるとマコとデートを済ませたMが、私達の席に戻って来た。 すると「もう帰りなさい」と低い声で年上の人は決まって私に言ったものだった。 
思い返せば、不思議な三角関係の渦のなかで、17歳の私は、年上の人の揺れ動く心を少しも気づかぬうちに慰め役になっていたとは、ずっと後にマコが“小説家森瑶子”と成って、Mとその年上の人と自分の恋を短編にしたときに初めて知った。 
マコは勿論その年上の人とも親しかった。 でも、その人がMの本当の恋人だということには気づかなかったそうだ。 

 彼女たちとMの3人は、マコが亡くなるまで友情を保ち、ばらばらの人生になっても時々再開しては青春を懐かしんだ。 そして稀にその席へ、私が呼ばれる事があったのだ。 
真の意味での大人の日本人が、確かに私の回りには大勢居た、良い時代。 森瑶子さんを思い出す時、あの真すぐな眼をしてMの所へ歩いて来る、若き日の彼女を忘れられない。 

つづく


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