渾沌に穴をあけるな
鳴門の渦潮を生まれてからまだ一度も見ていないので、その早さや凄さは把握できないが、結構恐い渦巻きなんじゃないだろうか?
ジっと見つめていたら引き込まれそうな感覚。 高層ビルのてっぺんから下を覗くと一瞬自分の身体が離脱してこの高みから落ちてゆく不安を感じ、後ずさりする感覚だ。
あきらかに危険な匂いがするのだけど覗かずにはいられない恐いものみたさの感覚は誰でも一度や二度は体験しているはずだ。
夏の遊園地の胆だめしやローラーコースターの話ではない、美しく穏やかで癒しや慰めとなり必要不可欠な物が、突然その境界線をこえるとき、その分量をこえるとき、見た事のない怪物になるところが水でも火でも人でも、良く似ているという話をしたい。
知らないうちに巻き込まれるものの恐さ、突然引き込まれる出口のない体験についての話は予測ができないだけに恐ろしい。 たいがいの人は自分の人生にかぎっては起こり得ないと楽観しているはずだ、そんな時に突然悲劇が口をあける。 なぜ人は油断するのだろうか? 答えは簡単だ、経験がないからだ。 自分の回り、生きてきた道程に体験がない事柄は全て他人事として実感が湧かないから、繰り返し同じような悲劇が起こるのではないか。 「他人事じゃないね」と口では言いながら本質を見ようとしないために、事故や災害から真の原因を学べないのだ。
去年大丈夫だったから今年も平気という概念はあまりにも尊大な態度だ。 去年はおかげで無事だったがはたして今年はどうであろうか?くらいの謙虚な気持ちで一年づつ過ごす心がまえがあれば、少なくとも人の言葉や周囲の警告にもっと敏感であったろうに。 天変地異とは瞬きするほどの僅かな間におきる気候の変化のことをいう、人間の無力をいちばん強く痛感するときだ。 予測もできないうえに防ぐ力もこの自然現象の激変の前には無いからだ。
30年くらい前に東京近郊の玉川の上流あたりでキャンプをしていた人が大雨で流された事故があったように記憶している、そのときも確か中州にテントを張っており、各新聞が挙って中州の危険性を指摘していた。 アウトドア音痴の私でさえ、いくら水が曳いているとはいえ川の中にテントを張って眠る感覚を疑った。 危険な行為だとその事故から学んだ。 もし先日の玄倉川での被災者の中に50代以上の年令の人が混ざっていたら、かすかな記憶の中にその時の中州の事故の件が蘇ったのではないだろうか、悔やまれる。
女親は危険に敏感であってほしかった。 いのいちばんに赤ん坊や子供を連れて避難してほしかった。 男達がいくら大丈夫と言っても引き上げようと率先してほしかった。 今度の事故はまた風化されて30〜40年後に繰り返されるのだろうか。
それはあまりにも知恵のない話だ。 車の中に置き去りにされて熱傷で死に至る子供のあとを経たない数を見ても、自分のとこは大丈夫、の無感覚に全ての悲劇の芽があるように思えてならない。
この人間の不遜が恐ろしい、天は突然姿を変えて暴れ回る水と火をコントロールする力を人間だけに授けたというのに、その人間が畏敬の念無くしてどうして水と火を操れるというのだろう。
大自然は渾沌のなかにある、渾沌とは鳴門の渦潮のようにさかまく不思議のなかにそっとしておくのがいちばん似合っているのだ、中州という渾沌に竿をさしてはいけない。
(此の教訓を忘れないことが、唯一被災者の冥福を祈る事につながると信じて、記す)