マダム・アントワネットの下宿
「これから先きが思いやられるよ、ってネ、リィグがいっていたな・・・」
煙草に火をつけながらMが言葉をつづけた。
「なぜ?」
わたしはお茶を入れ乍ら不安になる自分を抑えながら聞いた。
「いや、下宿先の女主人がね、、リグが会ったかぎりでは相当気難しそうだったので、Kyoが苦労するのが目にみえてるってさ!そういってたから」
「なんだそんな事? マダム・アントワネット? それなら平気よ」
笑ってお茶を差し出す私に今度はMが怪訝な顔をした。
「フランス女性の扱いぐらいちゃんと教えてあるもの!、、ご心配無く!なんて(笑)それより急にKyoのことで話しがあるなんていうから、なにか迷惑でもかけているのかな?おたくの息子にって、さっきから心臓がドキドキしてた」
Mは長い白髪まじりの髪をかきあげながら肩をすくめるゼスチュアをみせてから「それは無いよ」と笑った。
煙草をふかすばかりで仲々話をきりださない相変わらずのMに、私から留学に至った息子の報告をかいつまんで話した。
「脚が悪いのは見ればわかるだろうし、語学学校からの紹介だから、おもわしく無ければ断られるだろうしパルドンとメルシーで暫くはなんなんとかなるんじゃない? それと微笑みを忘れずに!と食事は不味くても残さない事!って伝えといたから」
「うん、でも相手はフランス人だから」
意外な答えにこちらのほうが驚いた。 フランス大好きのMが、ずいぶん消極的である。
息子が春に旅行のつもりででかけたパリにそのまま居残って留学することに決めたのは少なからずMの影響もおおきかったはずだ。 前年久しぶりに森瑶子を交えて昔の友達と再会した時お互いの子供達も成長していて、Mの娘レダと息子リグはパリのリセに留学しており私の息子はM美大の2年生になっていた。 子供の頃はよく遊んだのにその頃は疎遠になっていた。
春休みに息子の友人が突然絵の先生方とパリへ行くことになり、ついでにヨーロッパを旅しようと声をかけてきた。 イタリア、スペインと回りパリで先生達と合流するまでの繋ぎに息子をさそったらしい。 百聞は一見に如かずともいうし良いチャンスである。
その事を聞いたMは「パリへ行くならぜひうちの子に会ってくれ」と言ってくれた。 それからすぐに出発した。
スペインには私の友人や祖父の友人も居る、元気に旅を続けている様子がそのあたりからも情報として入ってきていた。 ところが結果、息子は独りでパリへ入ったそうだ、トラブルもあったらしいが何より旅を実感するには一人で苦労しなければ東京とさして変わらず、出かけた意味が見出せない!と考えた末の別行動らしい。
「熟考の末、パリに残ることにしました」と手紙がきたのは4月の末だった。 大学を休学してでも今パリに残る意義について理路整然と記してあった。
観光旅行のつもりででかけたはずが突然の心境の変化である。 Mの息子や娘、その友人達に会って刺激を受けたのであろう、じっくり生活しながら見るパリはより得るものも大きいに違い無い。 息子がパリに残るか大学に戻るかを考えていた時にMも「ぜひ残るべきだ」と後押しした。
「・・チャンスをくれてありがとう。」と手紙の最後が結ばれていた。 たった2ヶ月でも旅の成長が見える手紙に、感涙で私と母はべそべそしたっけ。 円高のおかげで日本で学生生活を送るより寧ろ安くてすむのも魅力だった。
なにはなくともまず語学ということで文部省から国際学生証をもらったり大学で成績証明書をもらったり、そのほかの必要な書類を急送し、パリ語学学校へ留学するという慌ただしい手続きを終えた。
すぐに凱旋門近くオッシュ通りに面したマダム・アントワネットのところに下宿が決まった!としらせてきた。
そんな矢先Mから話があるから行く、と電話があったので、やはり障害者を留学させるなんて暴挙だったかな〜、Mの子供達に迷惑かけてるのかな〜と不安がよぎったのだ。
Mはあいかわらずストレイトには喋らない、なんといっても詩人である。 ポンと投げてくる言葉のきれはしから拾い集めて会話を繰り広げねばならないので緊張するのだが、先輩である彼の意見は貴重である。
「フランス人が気難しい?、そりゃフランクなアメリカ人てわけにはいかないだろうけど、それとも障害者は無理かしら? こないだの手紙にメトロの階段をオッチラエッチラ上がっていたら身なりの良い紳士が何か言うのでリグに訳してもらったら、<君は英雄だ!>っていわれたッて、何が英雄なんだか?て書いてきたけどこのエピソードひとつ取っても日本にいたら絶対に聞けない言葉よ! 行かせて良かったと思っているのよ」私の実感だった。
「それはそうだね、、差別はむしろ日本より無いと思うよ」
バカロレア(大学入学資格試験)を目前にして私の息子の面倒をみなくてはならないのではMの息子にたいしても気の毒だ。 食事付きの下宿に移らせたのも、Mの気持ちも考えてのことだ。 手紙で何度も勉強の邪魔はしないようにと伝えてある。
「保険はかけた?」とM。
「うん、飛行機落ちても捜索費用でるだけ十分に」
「なら安心だ!むこうは医療が高いからね」
あとは若い二人の判断にまかせよう、親どうしが友達だからといって2代に渡って友情を育まなくちゃって決まりも無いのだから、と割り切る私にかえってMもホッとしたようだった。
「マダムアントワネットに挨拶に行く時スミレの花束を持っていったらしい、凄く喜ばれたそうよ」
「やるねぇ!」
「だいいち私で慣れてるから気難しいフランス女なんて平気よ、あの子!」
これにはMも大笑いして納得して帰っていった。
言葉についていえばこれはセンスの問題で、フランス人同様に読み書きできても内気であればいくら永く滞在していてもコミュニケーションは下手である。 心配してもしかたない。 下宿先のマダム・アントワネットとも折り合いをつけ、様々な国の友人を作り路上で音楽活動も楽しみ青春を文字どうり謳歌できたのは息子がアグレッシブな性格であったためである。
私とM、息子とリグの親子2代にわたる友情も、彼等はむしろそれ以上の密度で育んだ。 その後すぐMの子はバカロレア準備のため日本に戻ることになったが、息子は結局2年間のパリ生活を楽しんだ。 10年後に再びパリで仕事をするようになろうとは想像もしていなかったあの頃・・心配だ・・とは口にこそ出さなかったが、やっぱり心配してくれていた言い出しっぺのMを懐かしく思い出す。
煙草ばっかりつけては消して肩ばかりピクピクさせていたっけ、自分の言葉の影響力にチョッピリ責任を感じていたのだろうか? もうあまり会うことも無いこのごろだが「残るべきだ!」とのMの言葉がなかったらパリ留学も無かったかもしれない。
瓢箪から駒の一言! 運命はお洒落なこともするようだ。