マレフィスのリュンヌ
昔からの先輩、詩人のMには3人の子供がいる、長女はレダ、長男はリグそして末っ子がリュンヌ。
Mの人生における最大の傑作がこのユニークな名前をもつ子供達だ。 日本人でありながらギリシャ神話の神に愛された名前をつけられ、日本の教育も全く受けなかった彼達はMの理想どうりに育てられたのであろう、各々美しく成長した。
若い時からMを見ていた私はある感慨を覚えずにはいられない。 当時、Mは子供の私から見ても不思議な人物だった。 大人で掴みどころのない飄々とした人、そしてプレイボーイでもあった。 40過ぎても正式には妻帯しなかった彼が突然結婚したのは20も年下の、ある有名な詩人の独り娘とであった。 その当時既に結婚していた私は大人のMの結婚に対する哲学のようなものを漠然とだが、見せられたような気がした。
血筋を冷静に見極めていたような。 常人には真似の出来ない冷静さだ。 若い時は理解に苦しんでその計算された理性を打算だとして嫌ったりもしたのだが。
30年近い年月のなかでMの理想の子供達が成長した今、改めて男にとっても子孫を残すという闘いは女同様、慎重であってしかるべしだったのだ!、と実感した。
今は活動していないマレフィスという幻のバンドで作詞とボーカルを担当していたリュンヌはMが慎重に選んだ詩人の血筋を見事に受け継いでいる。 大事にされすぎた長男長女とは別に自由に放っておかれたことも幸いしたのか、早い時期にパートナーと一緒に留学先のパリで曲作りをはじめていたが、人目を驚かすほど美しい少女である、業界が放っておかなかった。
デビューの頃息子も交えて相談されたとき、彼等の才能は疑わなかったが日本というものを疑っていた私は、二人が傷つくような結果になるのではないかと危惧した。 なぜなら、広告の世界に長くいると、売れることと才能が比例しないことをイヤというほど見てきたからだ。 スタートを目前にしながら彼等も漠然とした不安を抱えているようだった。
日本は大人の感覚が育つ土壌が無いとよく言われるが、それ以上に作り手側、送り手側に大人が育たないシステムだからだ。 若者に迎寓することのみ汲々とする経営者は数字が上がらなければすぐ結論をだす。 担当者が惚れ込んで一緒に心中するような覚悟はもはや今の日本では過去のものだ。
フランス語である、美しく若き恋人達である、詩が高尚である・・、これらは何故かここでは必ずしも有利な要素にならない。 ほんの一握りの知性派の熱烈な支持にもかかわらずリュンヌとタクのCDは彼等の音楽の質に相応する程には売れなかったのである。
若い2人はアッサリと業界を捨てた。
得意のフランス語を活かしつつ庭付きのメゾネットで優雅に暮らしている。
日本があらゆる価値観を変えない限り彼等の語りかける歌声は届くことがないだろう。
美しいのに優しくて心が柔らかい最高傑作品のリュンヌをみながら、日本にこんな子孫を送りだす事ができるMの先見の明に、舌を捲くしかない私である。
Mは忍耐強く本物の文化性なるもの(完成された感性)と生涯をかけて闘っていたのではないか? フッとそんな考えに至った。