森瑶子幻想
誤解をおそれずに言うなら作家 森 瑶子の一番の功績は、女が夫や子供に望みを託しながら生きる空しさを赤裸々に表現していった点ではないか? また女にも欲望があることをハッキリと男達に突き付けた事。 今でこそ常識となった女の性に対する飢えや乾きを正面から自分の問題として取り上げた点にあるのではないだろうか。
・・・ここまで書いて急におかしくなって手が止まった。 こんな文章は評論家にまかせれば済むことで、今さら私のような素人が書くべきテーマじゃないな!と気が付いたからだ。 瑶子さんのオフィシャルサイトに父上の三男氏が寄稿文を載せているのだがその中に「人間万事寨翁が馬」の話しをしていらしたのでそんな事を私の観点でやっぱり書いてみよう。
中国の諺で有名な話ではあるが概略を説明するとこうだ。
愛馬が逃げてしまった寨老人の元へ近所の人達が気の毒に思って慰めを言いにくると、老人はさして落胆もしていない。
「逃げたかったのだから仕方ない」とアッサリとした様子。 暫くすると逃げたはずの愛馬が見事な名馬を伴って戻ってきたから又また、たまげた近所の連中がこの幸運を祝いにやって来ると相変わらず寨翁は
「これが幸運かどうか果たして様子を見ないと」と平然としている。
皆首を傾げながら老人の胸中を訝しむのだが、やがて老人の息子がその名馬に振り落とされ脚を折ると
「やっぱり不運でしたね!」とこぞってお見舞いに来る村びとを前に相変わらず
「いやこれが一概に不運かどうかは解らないよ」とすまし顔で答える老人に捻くれ者と呆れる村びと達。
やがて戦争が勃発し脚の悪い息子は戦場へ狩り出される事無く無事であった・・・村びとはつくずく寨老人の先見の明に感服した。 という話であるが人の禍福はあざなえる縄のごとし・・・そうそう易々と喜んでみたり悲しんでみたりするものではない、災いや福は人間の知恵では測り知れない!と人生の奥深さを示唆する私の好きな諺である。
人との付き合いかたにもこのことは当てはまるようだ。 すぐに温度のあがってしまう付き合方をする人がいるがこれは危険。 恋愛の壊れ易い点もそこにあるのだが。 恋いは「落ちる」のであるから仕方がないのだろうか? 愛はどうかというと勿論「育てるもの」である。 「落ちるもの」と「育てるもの」一目瞭然のプロセスを混同するところに恋愛の悲劇があるようだ。 一方的に好きであっても自分の気持ちを矯める心も働かせないと、イメージだけが先行してしまいがちで自分勝手に作り上げた虚像に相手を押し込めてしまいがち。 結果、失望や挫折もあるのではないかな。 恋愛にかぎらず人生の全てに途中のプロセスのみで吉凶の判断を下す事が多すぎるように思うのだが。 仮に森 瑶子がいまも活躍していたならば作風の大きな方向転換もあったかもしれない、と想像してみた。 再び誤解を恐れずに言えば私の年令まで生きて執筆を続けていたならば彼女は「恋」のはなしより「愛」のはなしをより多く書いていったに違い無いと感じ始めたのだ。 残された読者は森 瑶子に憧れだけを視ずに自分達で続編を書いてゆく必要があるのかもしれない。
愛とは「人間万事寨翁が馬」の話に置き換えれば、平凡な夫や不出来のように見える子達が長い人生の中でいつかかけがえのない宝や、または涙の種になるかを慌てず騒がず時間をかけて見極めることを教えてくれる唯一の方法だからだ。 一生を通して最後の最後で「しあわせだった」と言えるためにはこれはどうしても「落ちる」付き合いより「育てる」付き合いに目を向けるべきだろう。
なにも恋愛に限った事ではない。 親子関係・対人関係全てに言える事だが関係が熱ければ熱いだけ冷めたときは虚しいから、頭の端に「完」の文字を心掛けてみたらどうだろう。 「完」は終わるという意味ではなく出来上がった!あるいは持続しながらここまで来た、という趣きがあるのが良い。
若い女性が胸の中に飢餓感だけを膨らませて読むと森 瑶子の世界が間違った方向へ読み継がれて行くようで恐い。 「完」は皆それぞれに違うはずだから自分達で作り上げてほしい。
森 瑶子も現実は夫や家族に看取られて自分の人生を彼女の「完」で締めくくったのだから。