La Chambre Erotique

1982年の秋に私は再びパリにいた。
オートクチュールの大御所、ムッシュウ・ジバンシーにお会いする為だった。彼のファッション・ショウをCFに使う企画があったからだ。もっとも美しい季節のパリはシャンソンの世界そのまま、マロニエの葉が舞い散り映画の中にいるようだった。

人間のチャンスなんて不思議で私より適格な人材が他にもっと沢山いたはずなのに・・・その仕事は運良く私に転がり込んでくれた。
最初に話しがあった時スタッフに感謝しながらも一抹の不安が心の底をよぎったものだ。なぜならフランス語は大学で聞きかじっただけで、ブロークンな英語よりさらに酷くお話にならないからだ。更に高級ブランドとは全く無縁な暮らしだったから知識が果たして足りるのかしら? だいいち天下のジバンシイに逢うための秋冬の服も持っていない。慌てて購入しても無駄な事は分っていた。スケールがあまりにも違う。
年齢も生活スタイルも彼の服のレベルに達していないので似合うはずがないしお金も無い。
常日頃、私は男物のジャケット(但しイタリア製)を愛用している人間だった。46サイズなら男物でもSなので渋めに着こなすには重宝だったから、見栄を張らずにそのまま行く事に決めた。今なら普通の事ではあるが当時はちょっと珍しい着こなしだった。
母子家庭では派手な稼業をいい気でいたら成り立たない、何処かで倹約するのには工夫をしないと無理なのだ。これは正解だった。 どうせ息子が大きくなったなら嫌でも男物が必要なはず、男女2人分賄う余力などとても無い。それなら今から良い物を手に入れてそれを着まわそうと彼が中学の頃から始めた苦肉の策だ。流行とはひと味違った個性ができつつあったのでそのまま押し通すことにした。
ただし女らしさの演出も抜かりなく渋い色めの造花をブローチの替わりに飾ったり、ネクタイ姿に真珠のネックレスをしたり、花柄スカートと合わせたりは大胆に。襟巻きまでも男物。意外とフランス人スタッフには好評だった。なぜならファッションの街パリではそんな工夫が日常茶飯事だったからだ。俄成り金の東洋人旅行者はパリでは寧ろ浮きまくるくらいだ。
そんな事を言っても私が金持ちだったならムッシュウ・ジバンシーの洋服で上から下まで決め込んで、それが礼儀とでも勘違いして案外ノコノコ出かけていたかも知れない。似合わず、着こなしてもいないので彼のプライドを傷つけて、きっと絶望させていた筈だ。人生、何が功を奏すかわからない。
オートクチュ−ルの世界へ普段着で乗り込んだのはこんな理由からだった。

仕事は撮影だけなら呑気だが外野が案外忙しいのである。いわゆる外交という類いが厄介なのだ。
日本はビジネスのお得意さまだ、遥々海を渡ってやってきた撮影隊は別人種であるにも拘わらず、パリのジヴァンシイ社は極東担当社長自ら接待を申し出てこられたのだ。今では考えられない懐かしき良き時代である。ムービー関係の人間は営業力皆無、何故かバンカラが多いのだ。横飯(外人と食事をしながら両隣りの人と会話をかわす会食をこう呼んでいた)などは無縁な彼等だ。もちろんスーツも持たず来ている人もいる。
突然のご招待に蒼くなったプロデューサー氏に私はこう言った。
「ありのままで良いでしょう、但しこの際全員、ネクタイだけはジヴァンシーの物をして行きましょう」
当時、出店真近のジヴァンシイー・オムは銀行だったところを買収した店で巨大な金庫が印象的だった。ギャング映画で見るようなピカピカの金庫の扉が円形で天井から床までソックリそのままインテリアの装飾にしてあった。
そんな驚きの店で皮ジャンの人にはニット・タイを、スーツの人には色と個性に合わせて絹やウールを見立ててあげて全員それなりに誠意を首に締めて接待の高級レストランへと繰り出した。
そこは目聡いファッション人間、極東担当社長さん、
「皆さん、実にお一人づつ、我が社のタイがお似合いで」と卒が無い。男共ニンマリ!
総勢18人くらいの会食のテーブルに通訳はひとりしかいない。私の隣は何故か社長さん。横飯は黙って食べてはいけないのである。お行儀が悪いとされるのだ。英語でしきりと話し掛けて来る社長さんに相槌をうちながら私は左隣や向いの押し黙っている男達が気になった。
「ね、皆さん、今社長さんがピサの斜塔のジョークを言ったみたい、正確には訳せないから、適当だけどここで笑って!」
「わはは??」
こんなかんじで2時間。長崎の黒船外交もこんな風かしら?
社長さんが日本語を分っていたら・・・とゾッとする。極め付けは
「ぱとらさんの所盛りあがってる〜」
遠くからの通訳の一言にドっと笑った私達。横飯外交は疲れるばかり。学生時代にサボっているとこんなところで冷や汗をかく始末。
印象的だったのは日本からロゴマークなどのライセンスをジバンシー社と結んでいた、ある中小企業の社長さんが同席していた事だ。日本人同志だからと其の夜同時に招待されていたのだ。社長自らパリへ乗り込んで営業する様子は素晴らしかった。
臆する事無い見事なマナー、見事な英語だった。それにひきかえ我々のクライアントは日本で有数の大企業にも拘わらず英語もフランス語も話せる外交担当社員をただの一人も送り込んではいなかった。20年経って外国人社長に取って替わられたのも無理も無い、小さな自主努力なしでは衰退するのも当然だった。

オートクチュールのショウ会場はオペラ座だ。世界中からマスコミが集まって壮観を通り超して熱気だけが渦巻いていた。ショウの後の取材合戦で私は無礼なNEW YORKのヴォーグのカメラマンと喧嘩をした。順番どうり私がセレクトしてラックに掛けてキープするドレスを片っ端から鷲ずかんで写真に納めているからだ。事前に約束を交わしておいたのにも拘わらずだ。大和撫子返上し大声で抗議をする。すると奴は平然と、
「ここは戦場さ、君のkeepはこちらの狙いにjust fit! 早い者勝ちだよ」
と嘘吹く始末。日本市場とアメリカ市場の一騎討ちに顔色を伺うだけのフランス勢、気弱な日本人男性クルーは押し黙るだけ。シャイなんて世界では通用しないのよね、石原さん、no!と言えなくてどうする。順番を守れアメリカ人。「おなじアメリカ人として恥ずかしい、ソーリー」と謝るスタッフがジバンシー社に居たのが救いだったけど。

撮影が無事終わったある早朝5時頃全員車に乗ってパリを出発!2時間くらいで郊外のシャトウに到着。ムッシュウ・ジバンシーの館(お城)で朝ご飯に御招待されたのだ。霧がかかった広大な敷地に両翼を広げたような眥のシャトウ、建物の回りを水壕が取り巻いている。実に荘厳な城というより僧院のような印象だった。
外まで出迎えてくださったムッシュウ・ジバンシーに思わず
「素晴らしい!貴方は実にリッチな方なのですね〜」と印象をのべると
「リッチ?ちがうよ」
と素っ気無い。そんなご謙遜を! と思ったのでさらに感極まった風に
「いや〜こんなリッチな世界、ほんとに初めて!」と付け加えると
「だからリッチじゃないよ、・・それ以上だ、富豪ってとこかな。」
あっさり言われてニの句が告げなかった。レベルがちがうよ・・というわけだ。
見渡すかぎり緑の領地が広がっている。
私の着ていた茶の一枚仕立てのコートを(バーゲン品にも拘らず)えらく気にいったようで広げたり首のラベルを確かめたりの品定め。
「プレタポルテのほうが良い物があるね、凄く良いよ、ル・ブルユーか?」
と無名なパリの既製服メーカーの名を何度も反芻していたのが印象的だった。安物でも良い物は良いと言える態度が素敵だなと好感が持てた。今まで雲の上の人が急に身近になったようでかえってドキドキしたものだ。
その日は外でスチールを少し撮る約束もあった。朝霧で濡れている戸外で写す普段着の彼を!。
Monsieur Givenchyジバンシーさんは濃い緑色の襟巻きとダウンジャケットに長靴姿が決まっている。
「それもムッシューのデザインですか?」と尋ねると
「ちがうよ、アメリカ製、軽くて最高さ」と得意そうに答えた。
恋人と噂されていた中年の小柄なブネ氏が熱いコーヒーのポットを抱えて、背が2メートル近いジバンシーさんの後ろを、ちょこまか小走りになりながら何くれとなく面倒みている姿は素敵で微笑ましかった。彼等は堂々と自然で仲の良い夫婦のように違和感が全くなかった。

石の館は私達のために1週間前から全館火を入れて暖められていた。 食堂は修道院にあるような年代物の見事な一枚板の大テーブルで和気あいあいと始まった。クロワッサンとミルクコーヒーだ。フランス人の朝食は常にこれだけだ。
「ハムが無い、ベーコンが無い、結構つましいね」スタッフのひとりが呟いた。
と、すかさずムッシュウ・ジバンシーは
「このクロワッサンの粉もバターもミルクも全部、この農場で採れたものだよ!こんな贅沢な事はないね、そう思わないかい?」
全員慌てて頷いた。本当に料理番のおばさんが焼いたクロワッサンは最高だった。

食後、部屋を案内していただいた。何百年も前の建物は意外にモダンな内装で設えられていた。ピアノ室にスタインウェイのグランドピアノが黒光りしていた。この館で世界的ピアニストが弾いたらしい。しきりに弾いてみなさいと強く勧められてまさか猫踏んじゃった・・を弾くわけにもいかず慌てて固辞したが。
映画室。 広間。 こじんまりしたムッシユーの書斎。 
机の前の壁には彼の才能をいち早く見い出してくれた亡きスキャパレリーの手になる絵、若きジヴァンシーの素描がピンで止められてあった。
「素敵ね!」溜め息をつく私。
「あぁ、僕の宝なんだ」大きな手で優しく止め直しながら答えた。若く美しく精悍な横顔が鉛筆で描かれてあった。
一緒についてきたフランス人のマネジャーは興奮していた。「日本人で貴女がはじめてよ、彼の書斎に入れたのは」
よほど機嫌が良かったにちがいない、突然「君にだけ見せたい部屋があるよ!」といって腕をエスコートするように差し出してくれた。肘に掴まりスタッフの羨望の眼差しを振り切って2階へ、すり減った木の踏み板に時代を感じる階段をあがると・・・
そこは客用寝室だった。天涯のついたベッド。お揃いのファブリック類。足元にアンティークなブランケット入れが置かれた、本でしか見たことのない趣味の良い部屋である。
数冊のインテリアの本がディスプレイされていた。お客が退屈しない配慮だとか。実に見事な部屋である。女性用、男性用が趣向を凝らして用意されてあった。
「建築家になりたかったんだ・・・ほらこれを見てごらん」と楽しそうに説明しながら18世紀イギリス風の華美過ぎない実質的でありながら品格のある部屋を順に巡って見せて行く。
「ここは僕の寝室」今までの2倍の広さの部屋だった。あんまり見ては悪いような気がして足早に通ってしまったので記憶が無いのが残念だが、部屋を見せる習慣は外国では普通の事なのだ。
問題はそのベッドルームから続いている部屋だった。何帖くらいか見当も付かない石の部屋。
高い鉄の窓から陽の光りが注がれ、反射が石の床に綺麗なアーチの模様を写している。
一瞬何の部屋か解らなかった。
がらんとした部屋の真ん中に乗馬ブーツがキチンと揃っておいてあるのが目に入り部屋の真ん中よりヤヤ窓側に斜にデンと置かれた陶器の猫足が・・・バスタブだった。床に敷かれた毛皮。並べられた壜類の琥珀の輝き。猫足の肘掛け椅子。暖炉。絵。
そこは実用的からは程遠い中世の騎士の使う様な浴室だった。
「向こうの部屋、あのドアからも、両方で使えるんだ。」
部屋を挟んでシンメトリーに置かれた反対側のドアを指さしながらムッシュウ・ジバンシーは説明する。浴室の常識を超えるまったく無防備な空間だったが、かえって貴族的な匂いがする部屋だった。バスタブが無ければ中世へ逆戻りフェンシングでも練習する場所のようだった。湯覚めしそうな部屋・・・ドアから距離がありすぎて奇妙な感じ・・・なのに何を思ったのか
「ブラボー! ・・・官能の部屋ね」突拍子もなく私はそう答えた。
「そうかな?」
「ウィ。そう思う!ネス・パ?」断固としたふうに答えた。
むしろ禁欲の部屋と言うべきなのに、飛び出た言葉を言い直すボキャブラリーが無かった。私達は首をすくめて笑いあった。笑いの意味は違っていたがまるで共犯者のように。

帰り際もし引退したら何をしたいですか?と質問してみると
「語学、中国語とか勉強したい。」 それから「もちろん日本語も」・・・と慌てて社交辞令も付け加えたような答えが帰ってきた。
確かにトンチンカンな受け答えではコミニュケーションは漫画になってしまうから語学は大切だ。冷や汗が再び脇の下を濡らした。

こんな思いにも拘わらず私の語学は中途挫折のまま進歩しないで終わった。私も自主努力をしなかった一員なのだ。
去年リタイアしたジバンシーさんは今頃自由に中国語をあやつっているだのろうか?
磨かれた石の床や柔らかい陶器の曲線とともにあのブーツが目に浮かぶ。・・・まだ乗馬を愉しんで居られるほど元気だったら良いな!
説明出来ない浴室、ミステリアスではあったがあながち間違った表現でも無かったな・・・?
「ラ・シヤンブル・エロティーク」 フッと頭をよぎった。


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