貝あわせ

お雛祭りが近づく度に思い出す事がある。終戦後火事に遭ったわが家には雛人形なぞ全く無かった。世の中が落ち着いてきても、いつも世間よりちょびっとだけ貧乏なわが家に相変わらずお雛様は無く、女姉妹2人とも雛人形を飾ることも無く青春時代を過ごし、そのおかげでかしまい忘れて婚期を逸することもなく早く実家を離れることにはなった。
結婚した夫は貧しいアーティストだったがマメな人で雛人形も持たずに嫁いで来た私のために、手ずくりのカレンダーに男雛女雛を張り付けたり、時には桃の花を旅先から手折ってきたりと、工夫を凝らしてはその年その年を楽しませてくれていた。
そんな仲の良かった夫婦にも時代の強風が吹きつけ、仕事が忙しくなるにしたがって亀裂が入りはじめていた。2人とも圧倒的に仕事への情熱のほうが強くなっていき、守るべき家庭生活が負担になりすれ違いも重なってひとり息子の就学を契機に別居するまでに壊れつつあった。

青山の事務所時代は忙しさのために人格まで破壊されかねない悲惨な毎日だった。仕事が絶え間なく続いてその終わりのない恐怖感は、二十日鼠が檻の中で虚しく回転梯子を廻ししつずけるように救いがなく、もはや初めの頃の仕事する喜びに狂喜した欠片さえ見出せない苦しさの連続だった。過ぎたるは及ばざるがごとし、フリーランサーの怖れは仕事が途切れることだ!とばかり思っていたうぶな私は休めない事の辛さにのたうちまわるほどもがいていた。
冬に初夏用の撮影をするわけで一年中、季節感がずれていた。仕事は言ってみればインスタントラーメンのようなもので偽物臭さがつきまとい満足感がなかった。常に時間との競争で神経がズタズタになりこの状態が永遠に続くかぎり心の平和など何処にも見出せずにいた。自分ですすんで入った世界だからなお追い詰められていた。

そんなある日、夫だった人がめずらしく、側を通りかかったから、と事務所に立ち寄った。若いスタッフと打合わせ中だった自称仕事人間の私は適当な生返事をして手渡された袋をすぐには開けなかった。
居心地悪そうに暫くタバコを噴かせていた夫もじゃあ、と帰って行った。
下着のショウの準備はモデル押さえが重要だった。電話にしがみついてマネージャーとスケジュールの調節に躍起となっていた私は一秒も許せないかけひきの真っ最中だったのだ。夕方以降は例外なくモデルクラブの電話は不通になってブッキング不能になるとはいえバカな話である。携帯や何本も予備の電話のある今の時代では無いにしても・・たったの30分もひねり出せないなんて。すべてにおいて感覚が狂っていたのだろうか。病んでいた、としか言いようがない。押さえたトップモデルの一覧表を作り、オーデションを手配する確約の喧噪が終わった頃にはそれから2〜3時間が過ぎていた。
フッと我にかえりテーブルの下を見ると、さきほど手渡された夫からの袋が床に落ちていた。
胸騒ぎがして慌てて拾うと中から桃色桜紙に包まれたひと組の蛤の貝殻が転がりでてきて、一枚がそのまま転がって又床に落ちた。
アシスタントが拾いあげながらアッ!と小声で叫んだ。
月夜の絵が描いてある合わせ貝の片割れだった。
夫の手手描きになるその蛤の落ちてヒビが入ってしまったほうには白いエナメルの字でなにやら愛の言葉も綴ってあった。
蛤の貝殻はつがい以外決してピッタリとは合わず、遠い昔から貝合わせのゲームとしても重宝されているくらいなのだ。仲の良い夫婦を表わしもする。
お雛様には無くては成らない御馳走なのもそんな貝の蓋の習性から縁起が良いとされていたのだ。
私はそのとき初めてその日が3月3日だったことに思いあたった。

「ぱとらさん、 間違ってる・・・」いちばん若い18歳のアシスタントの多田ちゃんがポツンっと呟いた。
「・・・・・」 私は答えられなかった。
糊で補修された蛤は大事に小物入れの戸棚に飾られたが、運命の亀裂は二度と再び修正される事なく終わった。
引っ越し毎に移動して今だに手許にあるには有るけれど、きっちり包まれて引き出し深く仕舞われたままだ。・・・どうしたものか? 溜め息をつくしかない。


Retour