I was punished.
愛されることに鈍感になってしまっていた私も、ついに罰せられる時が来た。もうじき小学校6年生になるという春、息子は下校途中に信号無視の11屯トラックに轢かれた。
その日は3月12日で私は朝早くから赤坂スタジオに入っていた。金曜日。いつもより緊張していたのは以前看ていただいていた易者さんがこの日「事故の暗示があるから充分注意するように」と私に言っていた日だったからで、スケジュ−ル表に要注意!と書いておいたのだ。お茶を飲んで気持ちを落ち着かせてからスタジオへ入りセットの出来具合いをチェックしていた。室内での撮影ならば事故もせいぜい照明が落ちたりするくらいである。大道具さんやスタッフに激をとばし充分注意するように言ってからカメラマンやディレクターの到着を待っていた。撮影用室内のインテリアもできあがり、アシスタントがきびきび動き廻る姿を頼もしく眺めているうち子供のモデルも到着、俄然賑やかになったスタジオに大きく電話のベルが鳴り響いていた。スタジオマンが私を呼んでいたが、平素現場にかかった電話はアシスタントが取る約束なのでそのまま化粧室で子役と「今日のお仕事」について話しをしていると、何時に無くぼんやりしたような感じで近づいてきた多田ちゃんが「坊やが事故に遭ったそうです」と言って横をむいた。とても目をあわせられない・・・といったふうに。
気がつくとタクシーの中にいた。自宅にかけ直した電話口では当時の父の事務員がおろおろと要領を得ないで泣いていた。病院はかつて出産をした千駄木の日本医科大にできた救命救急センターであるとだけ聞き出すとまだ来ていないクライアントやカメラマンに伝言を残し車を拾って飛び乗ったのだ・・・。
事故現場付近の本郷通りには大きなトラックが不気味に止まっていた。不思議だったのはいわゆる変な胸騒ぎが全くしない事に気がついて冷静な自分が恐ろしかったことだ。けれど握りしめた手の平に爪が食い込んで赤く痕がついていた。
病院には父母が普段の着物姿のまま呆然と立っていた。その姿を見た瞬間、私は自分がこの世の中で一番の親不孝者だ!と突然殴られたように思い知らされた。
父も母も私の目を見ず「預っていたのに事故に遭わせてすまん」と言うばかりだったからだ。
まだ手術も出来ない状態なので暫く輸血をしているからここで待機していなさいと言われた・・・と口籠る父がひと回りも小さくなったように憔悴していた。共に救急車に乗り込んだ時、声をかけて励ますよう救急隊に指示されても動転して一言も発する事が出来なかったらしい。気の小さい人だ、顔面蒼白だった。救急車の中で息子は「おじいちゃん、釣りに行けなくなっちゃったね」と言ったそうだ。1週間後の春休みに父と釣りの約束をしていたらしい。
その日父はちょうど床屋さんから戻ってお茶を一口飲もうとしているところへ、近所の八百屋さんの奥さんが駆け込んで知らせてくれたそうだ。その人は息子と幼馴染みのタレント野々村真君のお母さんで救急車を呼んでくれたのも彼女だ、そのお店の目の前で起きた事故だった。
事の顛末は学校の帰りに信号待ちしていた息子が、その日は大変な渋滞で交通整理のお巡りさんが出ており青信号になったので渡り始めた息子に気づかず、交差点真ん中で立ち往生していたトラックに発進するように指示した為に起きた事故だったそうだ。トラックの運転手は他の車に止められるまで子どもを轢いたことにも気づかなかったらしい。死角の多い大型車の不注意であるとともに・・・あきらかに警察のミスでもあった。警官の目の前で起きた事故だったから対処はスピーディーではあったが・・・不信感は否めなかった。事故現場そばの病院ではなく、当時出来たばかりの救命センターへ運ばれた事も運が良いと言われたけれど事故に遭って運の善し悪しをいわれても慰めにはならなかったのだが・・・「息子さんに落ち度はありませんから」ついてきた警官は何度も同じ言葉を繰りかえした。
姉や夫も駆け付けてくるころには情報も集まり命に関しては大丈夫なんじゃないか!?と気持ちを落ち着かせてはていたが「罰が当たったのよ」と言う姉の一言はかなり応えた。母親が仕事をすることが良しとはみなされない時代に親に預けてまで働く妹を目の敵にしていただけに厳しい一言だった。
もし罰ならばせめて私に与えてほしかった。なぜ可愛い息子なのか?神って理不尽だ、とつまらない事を考えて、大事な時にこんな事を思っているから罰があたるのかしら?等と支離滅裂な思考が頭の中を纏まらないまま時間ばかり過ぎていった。途中経過を説明する為に手術室から出てこられた若い精悍な先生に「手とか脚とか大丈夫ですか?切断なんかしてませんね!」と思わず叫ぶ私にキッっとした厳しい目を向けると「命の問題なんだ!」厳しい声と共に一喝された。2〜3の健康上の質問をされた後再び扉の奥へ消えた先生の剣幕にすっかり仰天してしまった私は急に青菜のように萎れていった。
患者の家族はただ説明もされず待ち合い室でじっと待つだけの状態なのだ。病院全体を包む秘密主義的空気が精神衛生上とても良くなかった。数時間が虚しく過ぎた記憶がある。
父の懇意にしていた方が喧嘩太郎と異名をとっていた、当時の日本医師会長の武見太郎先生で、剛を煮やした父が連絡を取ってくれたおかげで武見先生の「孫のような存在です、必ず助けるように、宜しく頼む!」という鶴の一声が院長先生、救命センターの15名の医師15名の看護婦に電流のように伝わり全員大変緊張したらしい。おかげで息子の両脚と右腕は切断を免れた。運びこまれて数時間輸血その後7時間の手術を経て無事面会出来た時は夜の11時を過ぎていた。息子は波打際であえぐ瀕死のお魚のように無気力に横たわっていた。目尻から一筋の涙が流れていた。想像を絶する重傷だった。
気を失わず最後まで助けてくれ〜と叫びつづけていたそうで「もう今は声も涸れて出ないのでしょう、気丈な坊やです」担当医の報告に家族全員泣いたのはその時が初めだった。気丈な姉さえしゃくりあげて泣き崩れていた。
誕生日を目前にした春、自分が生まれた病院で一命を取り留める事となったのが皮肉でもあり運でもあったのか。その日から病院の待ち合い室に泊まりこんで万一にそなえることとして仕事の詰まった夫を翌朝返し、青白い鬼火のような闘志を胸の奥深くに燃え立たせた私は独りこの困難に立ち向かうべく覚悟を決めた。
後に件の易者に「何故私じゃなくて息子なのですか?」と詰問すると彼は冷静に「貴女がそれだけ強運だからです、貴女のパワーで息子さんは必ず元気になりますよ」そう電話口で応えた。
私は心の中で詫びつづけた、なにをどうして詫びるのかも良く分からなかったがひたすら詫びつづけた。自分の血の中の劫のようなものに・・・。
私が活き活きと生きる時に犠牲になる者のために詫びつづけてまんじりともしない日々を数カ月に渡って送ることとなった。
骨折は15箇所に及び、引きずられて出来た傷はお尻から大腿部にかけての肉をあらかた落としてしまっていた。傷口が大きすぎて縫合できない。化膿すれば切断もやむをえない、だが骨折が酷く全身をギブスで巻く必要があるのに傷は開放して置かねばならず医師団の苦慮が大変だったようだ。
結局胸から脚までギブスを巻き傷のある部分はギブスを切り取って太いベルトで息子のからだを吊るし、お尻の傷口に肉が上がるのを待つ方法が採られた。肉が上がり次第、胸の皮膚を移植する・・と伝えられた。
その日から先生や看護婦さんは息子のことを「空飛ぶ飛行少年!」と呼んで熱心に最新の治療法を試みては問題点を探してゆく万全の体制で挑んでくださった。良くなる事だけを考える毎日が始まった。
無事に一般病室に移れたのはそれから3ヶ月も経った5月の事、退院は2年後だった。
「事故に遭ったのは残念だったけど毎日会えるようになったね」息子のさいしょの言葉だった。私は必然だった事故の意味を悟り深く反省した。
病院のベッドで日に日に元気を取り戻す息子と同時に奇妙なことに私も元気になっていった。罰は下されたけれど天のくださった休暇のように看病体験は私の細胞を隅なくリフレッシュして尚あまりあった。
事故から2ヶ月くらい経ったある日、まだ集中治療室にいて面会も自由に出来ない息子のところへ定時のお見舞いに行くとカセットラジオを聞いていた息子が何を思ったのか
「ぱとらちゃん、愛ってね〜お互いの目を見つめあうことじゃ無いんだよ、知っていた?」と突然言った。
「え!信じあうことじゃないの?」おまぬけに答えると息子は未だに塞がらない傷口からシャーレの上に血を滴らせているのにも拘わらず
「あのね、二人がねぇ、どれだけ、おんなじ方向を見ていられるか!ってことなのさ。」
「何それ〜?」11歳になったばかりの子供から出る言葉に慌てる私にむかって厳かな口調で再び息子は繰返した。
「・・今ラジオでカーペンターズの『見つめあう恋』って曲を聴いていたらさ〜、そう思ったんだよ」
子供心にも見つめあっているだけでは発展性がないと感じたそうだ。
私は持っていたケーキの箱のうえにその言葉をしっかり書き込んだ。
・・・だとしたら私は端から愛について間違っていたことになる。
身動きも出来ない息子の澄んだ瞳のなかに幼稚な私を労るような穏やかな光りが揺れていた。