ご飯の恋
瑶子さんが旅立って丸7年の歳月が過ぎた。
手許に残った写真を眺め懐かしむように撫でてみる。
彼女の声が断片的に蘇り、記憶の糸を紡ぎ出す・・・
好奇心が全開になると悪戯ぽい目を輝かせて容赦のない質問魔と化す彼女には時々驚かされたものだ。
「ね、ぱとら。あなたの男の話を聞かせて」
事務所に遊びに来た時、唐突にそんな質問をされた。
「だって聞かせるもなにも、そんな人は居ないもの」
話題を変えるように答えると彼女の目は「嘘おっしゃい」と言うように笑っている。
勿論嘘は見破られていた。
私は当時普通に恋をしていた。それはどんな恋か?というと見せびらかすようなものでも、秘めるようなものでもない、取るに足らないご飯のような、お腹が空いたら食べる極自然な平凡な恋。未来はないけど絶望的ともちがう、普段は思い出すこともない恋。そんな、怠けた恋を両手に持って、好きに適当に食べていた。食べる恋。だからご飯の恋だ。
真面目な私がそんな恋をするのには理由があった。
独りで死んで行くだろうという漠然とした覚悟を持つリアリストな私は、のめり込む恋を自らに禁じていた。人の役には立たない自分、相手にも役に立ってもらいたくなかった。常に逃げ腰の恋。依存をこれほど拒否する人間に未来はまったく望めない、淡々と消化するだけの時間が横たわっているだけだ。分かりやすく言うと人の面倒を看る程体力がないので、情熱にも日常生活にも持続力がないのだ。すると我が儘だけが残る。
だから一つ屋根の下で人と暮らせない人間だと結婚以来自覚しはじめていた。
共に・・が出来ない・・・たまに・・が良い、そんな感じ。
持続は一つの才能である、そうは思っていてもそれはお金を稼ぐためにする努力の統べてに費やされやっと人並みなのであるから、人に気をつかいながら日常的家庭生活を生きるなんて金輪際できっこない。働かなければ出来たのだろうか。運の悪い事に時代の風は、当時まだ夫に吹いていなかった。
選択肢は別居以外ないうえに心底解放されたのだ。やっと勝ち取った自由である。
ところがある時体調に異変が起きた。38歳の身体がホルモンバランスを欠いて悲鳴をあげたのだ。不定愁訴。
医者の「ノーマルな生活をすれば直るよ、」という言葉をしっかり勘違いした私は急いでお手軽な恋をして秘密裏にホルモンバランスを整えたのだった。
まさか・・・
そんな横着な恋を瑶子さんには話せなかった。勘の良い人、作家森瑶子はアンアンかなにかに私のイメージのまま「結婚しない女」というような短編を載せた。
私の様に多少不良に、とは言わないが、もっと手を抜いて生きていたら彼女の人生はどうだっただろう?と考える時がある。
たった2歳しか歳が違わないのに完成度に向けて全力疾走してしまった彼女の人生を、惜しいと思ってしまうのだ。寿命を縮めたかもしれないと悔しいのだ。
のろのろ鈍亀のように生きる自分もはずかしいのだが、瑶子さんのよく口にした言葉の中で今頃やっと理解したこんなフレーズがある。
「女は嫌でも顔を選ぶか、腰(ウエスト)を選ぶか、選択しなきゃならない時がくるのよ!」
当時の私はまったく意味が判らなかったが10年後、しみじみその選択肢はどちらか片方しかあり得ない事なのだと知って深い溜め息をつくのだった。
その両方を失わないうちに彼女は逝くことができたのがせめてもの慰めだな・・・鏡にむかって呟く私。
執着する心をあいかわらず拒絶する私は、独りにも慣れた。
さしずめ瑶子さんが生きていたら「それでどうなの?独りの暮らしは・・・?」と質問されていただろう・・・産まれる時も死ぬ時も独り、と笑って答えるのだろうか。彼女を思い出すたび胸が締め付けられるのは7年経っても少しも変わらない。