クリスマス狂想曲
全国的に日本がクリスマスを祝うようになったのは昭和34年くらいからだ、いっきにアメリカ風の家庭サービスが日本に上陸したわけで勤め帰りのサラリーマンがデコレーションケ−キ売り場に殺到する姿が海外に報じられるほど巷に溢れた。
ケーキを買って帰らないと文化的父親像を演じられないのだ。 その頃のケーキはバタークリーム、食べ過ぎると胸焼けがした。
神武景気という時代である。我が家さえ、瞬く間に電化製品がふえていきアメリカナイズされていった。 電気冷蔵庫の普及とともに生クリームのデコレーションが当たりまえになって、二度とバタークリ−ムには手を出さず、そのうち店頭からも消えた。
昭和35年、我が家にないのはオーブンだけだったのだが、そのオーブンを買うとアメリカが一気にやってきた。
グラビアで見ていたような料理が簡単にできあがる魔法の箱に食卓が一変した。
すぐクリスマスに赤毛のアンの鶏の丸焼きを作ることになった。母は料理が苦手だったので一つ違いの姉と私で料理本とくびっぴきで試作品を作り、これが思いの他上できだったのだ。
成功に味を占めたのか、母が自分の父、われわれの祖父にも届けたいので作るように!と強引に命令された。
飽きっぽい姉は既に興味をなくし台所から逃げてしまったので、仕方ない高校生の私が又2羽の鶏を詰め物からはじめて今度はひとりで焼きあげた。
丸まる、詰め物で膨らんだ鶏は黄金色に焼き上げられ香ばしい醤油とバターの匂いに包まれてサラダ菜のベッドに鎮座して見るから旨そうだ。 途中鶏に刷毛でバターを塗って焦げ目をつけるのだが、私は祖父のためにお醤油も溶かしバターに塗って工夫してみた。
祖父は深川で赤い衣を許された住職である、クリスマスなど祝うわけがない。
けれど母は「いいの、いいの、黙って作って!」と頑固に親の特権で命令するのだ、高校生は黙って従う他ない。
「昔、子供のとき、近所の教会でクリスマスカードもらってきて並べていたら寺の家に邪宗があってなるものか〜って殴られて捨てられたんだけど、綺麗なものを何故破るのか理由が解らなかったのよ、そんな人が孫の作って行った鶏の丸焼きは怒らないと思うのよ〜」と母。
姉の運転するルノーで早速とどけたが、なんと寺の玄関にツリーが飾ってあった。時代のクリスマス狂騒はここまで忍び寄っていたのだ。
鶏の丸焼きに慶応に通っている中学坊主の母の弟が目を輝かせた。
祖父は既に高齢で
「たいしたものだね〜」と目を細めちょっとだけナイフを付けてからみんなに分けてくれた。
にこにこして怒る様子もない。
帰りの車の中で母が
「怒らなかったわね、自分の息子可愛さでお宗旨替えたのよ、きっと」とつぶやいた。
祖父は再婚である。娘である母が結婚して満州に渡った直後その妻を亡くしたので、後添えを貰い出来た末っ子はだから実の娘の子、つまり我々孫より年下である。5つくらい下なのに叔父さんになるという、複雑な関係である。
なにも寺に殺生な鶏の丸焼きを持って行かなくとも・・・と思ったものだが自分の子より幼い義理の弟にも巷の風、アメリカンな家庭の味、あじあわせたかったのだろう。義姉なる母の見栄が可笑しかった。 母の子供時代の大正からクリスマスは常に子供心を捕らえていたこととなる。
仏教徒だろうがお構いなしにクリスマス行事は日本の反映とともに隅々の家庭にこうして入りこんで来たのである。
オリンピックの頃はほとんどの家庭にカラーテレビが普及して、アメリカナイズはとりあえず完成した。日本の反映は心優しい父母達の家庭サービスへの努力でもたらされていると言っても過言ではない。
私も息子が成長するまで何度となく丸焼きを作ったことか。焼かないと幸せが逃げるようで「もう、飽きた」と言われるまで毎年焼いていたっけ、本日はお嫁さんに教えるための十年ぶりの鶏の丸焼きである。
そして、ほんの一切れ申し訳程度にお皿にのせて父母に饗す20世紀最後の宴、本来の姿どうりしみじみと家族で迎えたい。