(くさび)な恋

引いたばかりの電話が鳴ったのは息子享が産まれた1965年の夏のはじめだった。
「長谷川が亡くなったよ、急死、心臓らしい・・・。」
元クラスメートのA君は「急だったので葬儀後の報告だけど」とつけ加えた。
私は何と受け応えしたのだろうか? 今となっては何一つ思い出せないまま、ただ、受話器を置いてから、何かを探るように暫くその場に立ちすくんでいたのだけ覚えている。
覗き込むと満面の笑みでモミジのような両の手をつき出し迎えてくれる赤ん坊に気を取られ、というより命がけで産んだわが子にしか意識が向かない日々の連続、甘い密室的な空間へ飛び込んできた突然の死の知らせに正直なところピンとこなかったが、同じ年に産まれて来る者がいて死んで行く者がいる・・・縁のようなものを漠然と胸に刻んだ。


1957年頃、15歳の私は年令がまちまちの生徒たちが集う不思議な学院で高校生活を送っていた。クラスは男女共学そのうえ私服、中庭にお花畑がある小さな学院は、蔦が絡まり美術科や文科の大学部もごちゃまぜ、ある種のアルカディアだ。
文部省に認可されていないその学院へ集まる人間は、さまざまな事情を抱えた問題児が多かったのだろうが、概ね虚弱な人間や個性が強く体制に組みしない無頼、といっても知的不良の徒だが、どこからともなく集まって、西村伊作院長の強烈な個性の元に、華やかで嘆美で桃源郷とはこんなかしらん?と思わせる浮き世離れな学校だった。
一番下が13か14歳、上の年代は40に手の届く人もいたらしい。先生と同じくらいの歳の生徒も確かにいた。 混然とした年令が英語科、文科、美術科、デザイン科と授業は別々としても中庭で自由に出会い、触れあうことが可能だった。
「あなたの好きな人はおよそ2週間単位で替わるから、目まぐるしくて名前を覚えるのに往生したのよ」と、当時を振り返るたび母が笑う。
売店で順番を譲ってもらった!たったそれだけでその週はその先輩に夢中になるプラトニックな恋である。たわいもない話だが女子美付属中学校から転入したばかりの子供の恋は日替わりだった。

クラスに大学受験を失敗しバイトをしながら英語を一緒に学んでいる、長谷川君という大人がいた。たぶん20歳かそこらだったが15歳の私からみるととてつもなく年上に思えた。
1クラスしかない英語科は高校課程で男子は受験失敗者や病弱で遅れた者がほとんど、殿下と呼ばれる大企業の御曹子や北海道からの転校生、子役あがりの映画少年など、実に多彩な混成だった。後のBiGiのデザイナーで有名な菊地武夫氏も、年上だったが美術科に転入するまでは同じクラスだった。
転校生の殿下に夢中な私は毎朝、少ない洋服を選ぶのに大騒ぎ、すこしでも印象を強めようと躍起だった。お年玉をはたいてアメ横で本物チュールのペチコートを買い、膨らんだ落下傘スカートを得意になって履いて行き裾のレースが見えるように足を何度も組んで座ってみる・・・
でも噂では殿下の意中の人は別のおとなしい美人、私の努力は空回り、しかも面と向かってハッキリ「君はエキセントリックですね!」等と言われ意味も分からず辞書を引いてみると奇人・・・とあるのにたまげて、落胆し腹がたつ始末。

そんな中一番年長の長谷川君はクラブ活動などでリーダーシップを発揮、同人誌などの出し方やガリ版の切り方を指導してクラスの尊敬を集めていた。 ・・・が憧れるには年寄りっぽく地味でお世辞にもハンサムとは言えず、着たきりの詰め襟にレインコート姿の野暮な苦学生なのだ。
その長谷川君が何を想ってか池袋の画廊へ絵を見に誘ってくれた。普段の映画を見るのと同じ気持ちで軽く応じてどうと言うこともなく出かけた。
お兄さんが懇切丁寧に解説してくれる絵。東大赤門の近くのルオーというレンガ造りの喫茶店は達磨ストーブが炊かれ、小さな中庭があってモ−ツァルトが流れていた。カレーを御馳走してもらう間、転校生の殿下の話ばかりする私にふんふんと頷く長谷川君。
寒い日で赤い襟巻きに顎を埋めている私は帰り道、足許の銀杏を面白がって踏だ。ふいに「来学期はもう仕事が大変なので教室には来られないと思う・・・」長谷川君が口籠る。
何の感慨も持たない私は「でも、英語劇、来年は主役だと思うから秋の学園祭には来てね、」と呑気に自分の都合ばかり答えてとっとと家の中へ入ろうとした。 子供なのである、な〜んにも感じないまま寒いのだけが嫌だった。
「大学へ行くことになるし、あんまり会えないけど・・・結婚したいと思っているので、そのつもりでいてね」唐突に言葉にされた「結婚」に異常反応してしまった私は固まってしまい、何と答えてよいか困って咄嗟に「お父さんに会ってください」と馬鹿みたいなことを言った。
おやおやというように笑うと「その時が来たらね、今はまだ、じゃこれで」
あんぐりと驚きの表情をしたまんまの私の鼻の頭をちょいと指で弾いてそのまんまスタスタ遠ざかっていった。

それっきりなのである。その後教室で会っても別段どうという事もなく皆と同じに扱われ、狐に摘まれたような馬鹿にされたような、すこぶる変な感情のまんま取り残された私に、母は若い人の気紛れだから、と気にもせず笑っていた。

いよいよ新年が過ぎ3学期末になると長谷川君はほんとうに教室に姿を見せなくなり引き換えに私は無口な少女に変わっていった。

忘れた頃、葉書きが届き「バイトで得た物が珍しいので差仕上げたいから何日、必ず学校にいてほしい・・」と達筆な字が踊っていた。
初春の日溜まりの中庭で待っていると、まっすぐに背筋を伸ばした長谷川君は中庭を突っ切ってベンチの側までにこりともせず歩んでくると、糞真面目に45度のお辞儀をした。ふっと微笑んでから紺の風呂敷を開いて見せ、中から中国福健省辺りの切り絵がぎっしり納められた見事な刺繍入り装幀の本を取り出すと、一息ついてから、
「珍しい物なんだけど手に入ったので君にあげます、大事にしてね、」と手渡した。いよいよ大学へ行くことになったけど、いつまでもソフトクリームなんか嘗めてるお嬢ちゃんじゃなく本も沢山読むように、等と2〜3冊例を挙げて、付け加えるように暮れに転入してきたMさんという女生徒はとても大人だからぜひ友達になると良い、と言添えた。

ものすごく期待していたのに切り絵の価値が分からないのでがっかりしたうえに、あれ以来結婚については一言もない青年の言葉に「うん」と頷くだけの自分が素直なのか何なのか、恥ずかしいようで嫌だった。
好きか?と聞かれるとまったくもって分からない、無視したくても呪文をかけられたような、そんなとんでもなく不思議な状態だったのだ。

白州正子さんの紹介で高校2年のとき岐阜の山奥から編入してきたMさんは世が世なら殿様の末方?のような雅びな女性だった。長谷川君に言われた通り「お友達になってね」と席をMさんの隣に移すと、それまでの親友がワッと泣き伏した。たった1列うしろに下がっただけなのに、私はますます途方に暮れて、人生って面倒・・・とまた腹がたつ。

長谷川君とはそれっきり会うこともなく月日が過ぎて、18歳で大学部の美術部へ進入するころは切り絵の本を思い出すこともなく何処かへ仕舞いこまれ記憶から褪せていった。
19歳の10月、クラスメートの松任谷千鶴に引きずられるように仲間5人が油絵のグループ展を新宿で開くことになった。
当時天才として二科展に入選を繰り返していた千鶴のお陰で新聞社に取材され大きく取り上げられたのだ。遊んでばかりいた私の付け焼き刃な絵はお粗末で、到底鑑賞に耐えるものではなかったがなぜか5点中3点売れた。なにを隠そう他の人たちの絵の方が良かったのに大きい為に敬遠されただけなのだ。良くない絵なのは自分が一番解るから悪い汗をかくばかり。
会期中は人に絵を見られるのが苦痛だった。二週間は長過ぎる拷問のような毎日だったが小学生の時のガキ大将の鉄ちゃんまでが子分を引き連れて「新宿で困ったことがあったら呼んでくれよ」と銀バッチ光らせ、リーゼント姿で訪ねてくるに至っては、新聞の力って恐ろしい、と思ったものだ。
そんなある日、目の前に突然長谷川君が立っていた。よりによって最も見られたくない人が新聞で見て知ったのだ。眩しそうに目を細めて礼儀ただしく毛筆で署名してから「きっかけはどうであれチャンスは大事にしてね、続けて描くといいよ」とだけ言って去っていった。
努力なんて大の苦手な私は、嫌なこった・・・と心の中でつぶやきながら、何の感慨もなく近況も聞かず黙って後ろ姿を見送った。
暫くして34枚のわら半紙にぎっしりと散文詩のようなラブレターが届いたので仰天したが、母が面白がって声高に読むのでこれにも腹が立って放り出してそれきり忘れた。

それから3年後、私は結婚することとなり会費500円のパーティーを盛り上げようと当時行方知らずだった英語科の級友たちまで連絡をとりあい挙って出席してくれたが、長谷川君の姿は何処にもなかった。
早急に結婚したのは15歳の求婚からのナシの礫がトラウマだったやもしれぬ。

結婚の意味も解らない私がその言葉を聞いてたまげてから7年後、今度は息子を身籠ったのだから女というのも薄気味悪いものだが仕方がない。
昭和40年の春、桜の開花と供に元気に生まれた息子は一見玉のようで、5月の子供の日にあわせ写真入りのハガキをつくり得意になってまき散らす、という愚行をご多聞に漏れず決行する親バカぶりだった。

その年の夏のはじめ、長谷川君の訃報を知らされたのだ。


ほんとうならばそれっきりこの話は終わるはずだった。
私の記憶から封印され忘れさられたからだ。それなのに長谷川君は不意のプロポーズで私の心に楔 (くさび) を打った時とおなじ重さの楔をまたも唐突に打ってきたのだ。

25年間広告の一線で活躍したのに、1990年バブル頂点の頃急激に仕事量が減ってきた私を心配して、親類が霊力のある水晶の数珠を貸してくれて「いいから一晩でも手元へ置きなさい」と言う。
このての話はうさん臭く一番苦手なのだが無碍に断るのも大人気ない、押し頂いて綺麗なハンカチの上に載せてこう呟いた。
「もしこの世に守護霊というものが在るのならば、私の守護霊様はどのようなお方か会わせていただきたい」ちょっと真面目にお願いしてグッスリと眠りについたのである。
私は時々びっくりするような詳細かつ摩訶不思議な夢を見るのだが、何とその夜、私は夢で30数年ぶりに長谷川君と再会したのである。

飄然と角から、とにかく角からヒョイと現れた。詰め襟に何かのバッジを付け、きちんとレインコートまで着た彼は昔の姿のまま、ただ圧倒的に知性的で中々の紳士だった。
これは夢だ、としっかり自覚してる自分がもう一人いて、
「あれ、長谷川君は失礼ながら亡くなっていませんか?なぜそこにいらっしゃるのでしょう?」等と呑気に質問している。すると知的風貌と似合うのは正にこれだ!という声音で
ええ、僕はとうの昔に亡くなっています。今回君がもうお酒をやめよう、と言ったのでこうして出てこれたんです。君はいつも酔っぱらっているので聞こえなかったでしょうが、話しかけてはいたのです。
君を守っていらしたのは高い地位の方で、僕ではありませんよ。が、お尋ねになったので教えますが・・・君を守っておられた方々はもう誰ひとり側には居りません。何故なら守護霊というのは感謝されないと力を発揮できず、虚しさの中では反映するものがなく己の修行にならないのです。ですから感謝がないと、他の人の処へ行って共にもっと上へ上へと努力してゆかないといけないから、離れざるをえないのです

夢だとわかっていても仰天するような事を淡々と話す長谷川君に「感謝なんかした事がないのは事実だな〜、嫌な女だったし、自分の実力だと慢心してたし」と力なく反芻し縮こまり赤面する。と、いつの間に母が隣に来ている。
ところで僕は享君についています。まだ力が足りませんが理解力と簡潔な言葉で表すということを指導しています」と言う。
たまげる私へにっこりと笑って振り向く瞬間、カメラがズームでもするように家の角をゆっくりゆっくり歩いて行く息子の姿が映し出され、こちら側の3人、長谷川君と私と母がしみじみとその享を眺めている、そんなとめどもなく穏やかな燦々たる光りの気配の夢を見たのである。夢の中でしきりに納得し唸ってしまう自分がいた。

翌朝、少なくとも息子に関しては心配ない!というハッキリした確信と共に目覚めた私は、畏れ入って母に報告した。素頓狂な声を出して驚く母は、なんと度々彼を思い出すのだそうだ。
けれど私はまったく彼を思い出すことがなかったために少し厳かな気分で水晶の霊力かも知れない、と内心考えたがそれは暴飲を止めたからだろう。
「そ〜いえば享の物静かな話し方って、家族の誰にも似ていない」と言い出す母。
私はぎょっ!とした。息子は常に両手を膝のところで組んで人の話しを聞く、なぜ穏やかに首をかしげて人の話しに耳をかたむけるのか、ひょろっとした首や肩の線・・・まるで長谷川君のようだ。
その日、入学名簿を頼りにお寺を知ろうとしたが40年も前のしかも中途退学なので卒業名簿には載っていず学院では教えてもらえなかった。

夢は潜在意識の回答である、とは思ってみるものの。守護霊さまに逃げられるほどの無教養な自分の徳の無さを大いに恥じ反省しつつも、こう霊夢ばかり見るのであれば恐いので水晶のお数珠を親類に丁寧に返すことにして、それからは時々天を仰ぎ、耳を澄ますようになっていった。
その夢以来、言うまでもなく深酒もしなくなった。

それから8年後、久しぶりの友人が土産の香水壜を持って現れた時、唐突に「長谷川って覚えている?」と話し出した。プロポーズのエピソードのことは言わず頷くと、「やつは30前で亡くなってるんだよね〜」とため息をついた。我々は既に老境にさしかかっているのに!
当時葬儀に出た彼の口から死因もこの時始めて知らされた。
苦学するほど貧乏ではなく家はかなり大きい印刷屋だったそうで、働きながら大学へ行く当時のアメリカの風潮に習ったらしい。文化学院へは最初の東大受験に失敗した繋ぎで通っていた事。大きいデパートの書籍、展示物室のアルバイトをしていた事。大学は東大ではなく卒業後はすぐ大阪へ就職し高度成長期の企業戦に巻き込まれて行ったこと。
昭和40年の5月29日、ひさしぶりに東京の実家へ戻り、その夜まったく飲めないお酒を何故か痛飲し、そのまま急性アルコール中毒症で倒れ翌日亡くなったのだそうだ。家族には自殺にも思えたほどの痛飲だったらしい。
私は90年に見た例の夢の話をしてみた。「ほ〜」と感嘆する友人。
「兄弟が多かったし家もしっかりしていたから無縁仏にはなっていないと思うよ・・・」と付け加える友に感謝した。これは一番知りたかったことである。
彼の事を何も知らない私だった。

男が一人前に成るためにかかる時間と少女が女になる時間は明らかに異なるという事が今なら良く分かる。
持って産まれた素材だけを悪戯に浪費し節穴の目でボンヤリと世の中をみていた若い私を振り返るたびに「何と愚かな」と恥ずかしい溜息が溢れるが、盲目だったからこそ歩いてこれた気がしないでもない。
苦難な道を一歩も前に進めない時でさえ神頼みにはしてこなかった私がどんな人生の器の中にいるのか?常に興味があった。
易者たちは例外なく私の運勢を「早く結婚し早く夫を失い寡婦になるか、あるいは中年になって別れるかのどちらかだ」と見立ててきた。60年経ってみると悔しいが当たっている。
仮に長谷川君の言葉を大事に育んで結婚していたとしたら彼は30歳前にしてやはり命を落としたのだろうか?
ならば私は23〜4歳にして寡婦である。じゃ私は再婚しないのだろうか?亡くなった人のことをいつまでも憶って再婚相手と上手く行かないのか? なんだかそれもヶチ臭い人生だな、どっちにしても!と思っていたが、もしや純愛を一途に捧げられていた人生だと想像したら、寡婦も十二分に考えられる選択肢だということがこの歳になると理解できる。
知らない、分からない道だからこそ興味と勇気を持って歩けるのだろう。「点」のような出会いが運命に大きく拘わることになるのなら、せめて「点」を長い線にして人との絆を大切にしたいものだ、そう考え始めたのも長谷川君の夢の後からだ。

もう手の届かないものを夢想しつつこうして人は老いていくのにちがいない。


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