良く生きることは闘争なり
生まれたばかりの子供をかかえているにも拘わらす、絵の公募展の準備をしていた私は、寝る時間を惜しんで朝までキャンバスに向かっていた。小鳥のさえずりとほの明るい光で、はっと我にかえる何週間が過ぎ、いよいよ仕上げ、という時に喀血した。むずむずとせき込み、あわてて走った洗面台の白い陶器に泡立つ鮮血を見たときは、もう駄目だ!と蒼ざめた。
子供を引き離され、病理の結果が出るまで絶対安静を強いられた2週間は、実家が手配してくれた、通いの家政婦さんに任せベッドからトイレ以外に出ない暮らしを強いられた。
万事休す。そんな気分で天井ばかり見上げて涙ぐんでいた。24歳の秋だった。
・・・結果は単に毛細血管を切っただけの出血だった。そんなこともあるのだ。
お陰で焦っても仕方がない、自分の中の時計を止めて、ゆっくりと子育てに専念する覚悟ができた。
人間の体が意外に強いことも知ったので、仕事を始めてからバリバリとまで行かなくともパシパシくらいに進め、少なくとも自分だけは何事もなく過ぎていった。
42歳になったある日、検診のつもりで気軽に向かった医者からちょっと無いくらい貧血してる!と脅された。内診検査、血液検査ののち、内膜症のかなり進んだ状態、このまま放置しておくと卵巣が捻れ腹部に異常出血の畏れあり、緊急入院手術が必要とのことだった。
加えて「悪性腫瘍かどうか、お腹を切ってみないと安心できない」とまで、晴天の霹靂だった。
気がつくと病院近くのジローに座り、目の前に冷たくなった紅茶がポツンと置いてあった。見回すといつもと変わらない喧騒の店内、自分が何時からそこへ座っていたのかさえ記憶がないが、手にはしっかりと入院手続きの書類を握っていた。
どうやら一事的な記憶喪失にでもなっていたようだ。書類には来週の頭の入院、翌日緊急手術!となっていた。
仕事が夏まで入っていた。8年前の息子の事故以来、両親に迷惑のかけどうしだったことなどを思うと呆然自失。頼れる人は兄弟友人さえ持っていなかった。冷たい紅茶を飲み干すと立ち上がった私はある決心をしていた。
入院を親兄弟には知らせない。身辺は付き添いを雇うこと。手術の承諾書は18歳になっていた息子にサインしてもらうことなどを決めると急いで自宅にもどり、プロデューサに電話した。仕事を降ろしてもらうべく事情を話す。
ところが運のわるいことに次に入っていた仕事は海外ロケで「困るから、2週間で退院してよ、衣装も全部海外で探すから、兎に角2週間後には日本出られないと困るよ!」の一点張り。
レギュラーの責任もあるが、決して私じゃないと困る!ということでは無く、決められたスケジュルを手直しするのが面倒なだけ、・・・そんなニュアンスが伝わって悲しかった。
「それと、入院というのは秘密にしてほしい、企業イメージがあるから」とさえ言われた。こんな時病気になるなんて、このとんちき・・・と言わんばかりであった。
日本中が全速力で走っていた時代80年代前半、確かにこの時期に休めば今度こそ負けである。
仕事柄1日で入院準備を済ませ、入退院を10日間にしていただきたい、と病院に申し入れると激務じゃなければ海外へ行っても大丈夫..と言う返事、恐る恐る激務とはどのくらいを言うのでしょうか?と尋ねると「看護婦の仕事くらいかな?」と医者はのんびり答えた。
勝とも劣らない瞬発力を要す仕事が広告スタイリストだった。絶句した。
10日の入院中に歌手の江利チエミさんが亡くなった。酔って吐捨物に窒息しての急死だった。人ごとと思えず涙がでた。なぜなら忙しさのあまり熟睡するには暴飲するのが常になっていたうえ一人暮しが招いた悲劇だったのが身につまされたから。
今は禁止されてる付き添い婦制度は、当時、病院の治寮費より圧倒的に高かった。福院長の執刀へのお礼など含め68万ほど支払、咳をしても痛いお腹をコルセットで押さえ術後15日で出発したロケでは「激務、激務」と頭のなかで繰り返しながら働かなければ食べていけない身がこうしてどんどん寿命を縮める不条理に心底情けなかった。
降りたくおても降ろしてもらえなかったり、反対に折角好評の企画が第二弾の撮影段階でタレントの都合で降板させられたり、理不尽を嫌というほど味合わされた人生だ。
身体の事、死の事、とくに独身者は突然襲う病気や死にどう処すべきか、真剣に考え始めたのもこの時だ。自分の洋服とか贅沢な食器や家具を一切持たず余ったお金を兎に角貯金に当て、万一に備える覚悟をしたが、当時の日本の保険は規約を読む限り魅力的なものは一つも無かったので旅行意外は当てにしなかった。ケチなようだが利子もチェックして定額郵便貯金にしておいたのが案外良く成功だったといえる。
決められた医療費なら払おう、それで十分にうけられないサービスを家族に強いる日本の医療制度はまことに底の浅いチャチな構造だ。先生へのお礼!は勇気をもって廃止したい。
その後、母の6年間に渡る入院には勿体ないので自分が付き添ったがかなりな犠牲を払ったのも事実なら、身よりのない人の入院に於ける医療機関の冷たい態度にはいささか衝撃を受けたのも事実である。
願わくば寝間着くらいはアメリカのように病院から毎回新しいものが支給されるべきだ。老人家庭、家族が全員働いている場合、ひとり者等がせつない思いでいるのに上乗せのように「誰か週に1回か2回洗濯してくれる人は居ないんですか?」とまるで尋問されるような声を人毎でも聞きたくなかった。
天涯孤独な人や家庭の事情のある人を今さらのように病室で質問するのは酷だった。
それほど色黒では無かった私が50過ぎてから渋紙色の顔色になっていったのも養生できないくらい闘い続けた勲章よ、と諦め気味に自嘲するしかないのだが、とにかく腎臓を悪くするほどトイレを我慢する職業は辛かったので、止めたときは万歳の三唱だった。
自分の身は自分で守ろう、病気は60過ぎてから、しっかり食べる、便秘はしない、これを守って
やっと来年から年金がもらえる年齢だ。たとえチョビットでも嬉しい〜と思うのは私だけかしら?老人になってから病気すると嘘のように安い医療費もうれしい。
高度成長期に打ち死にのように亡くなっていった先輩や仕事仲間の無念を偲びお花くらい買えるだけでも
ありがたい、そんな思いで仏壇を家族全員が対面できる位置に替えてみたら、なんか俄然良いみたい。これでしばらく又頑張るつもり。