悲劇的はより喜劇じみて

家の若い者が3年ぶりにまたパリへ出かけた。もちろん仕事である。
「patra!1年分の家賃を振り込んで行くから留守番頼むね」息子は気軽、といっても大きなパソコンの荷物とこれ以上身軽は無いだろう、というそんな出で立ちでお嫁のフミちゃんと飄々として機上の人となった。 迂闊な事にすっかり慣れきってしまった我が家は出発便さえ聞かずに...
こんな事で良いものか?やっぱりいかんだろう!

ダラスの時の合い言葉のように「2001年9月11日、君はその時何をしていたか?」と問われれば、私はネットフレンドのセントルイスの順子さんと同年代の懐かしさから海を超えてお喋りを楽しんでいた!と答えるだろう。しかしその内容は・・・
「平和がこのまま続くとは思えない、きっと、戦争があるかもしれない、それもモスレムの方面で...現にもうパレスチナとイスラエルでは戦っているし...」
などと恐ろしいことに、そんな事を語り、今の平和を感謝しないとねぇ、と話していた矢先なのだ。
電話を切った直後、夜の12時過ぎに振り返ったテレビ画面にスローモーションのように映し出されたアメリカのシンボルが崩れ落ちるただならぬ映像に、ポカンとしてしまい、俄には反応の仕様が分からなかった。
つい今さっき自分の口からついて出た言葉の重さを呑み込むように唇を嘗めるばかり、気力が萎えた。

そんな世界的悲劇のテロ事件から1ヶ月もしないうちに契約とは言え日本を後にしてパリへ居住する彼等だ。
「心配じゃないですか?」と聞かれるたびに、
「テロに巻き込まれれば二人一緒! そんな死に方はまず出来ないからいっそ幸せ...そう考えると何ともないよ。」
本気でそう答え当人達はもちろん老母や自分をも無理矢理納得させてきた。

留学当時、日本は金満社会、社会のスピードがスローテンポの息子に合わないと思っていたので、就職活動などから遠い所へ身を置かせたかったので海外での生活は寧ろ望むところだった。

音楽好きの息子は言葉を喋れるようになるまで路上で音楽を演奏する仲間に参加してちゃっかりと人脈を作っていたのだが、その連中の中になんと十数年後、同じ仕事をする仲間が居たというわけだ。
東京とニューヨークにもオフィスのあるパリのビジネス校に就職したヤンは東京に居た3年間も時々KY0と音楽活動を共に楽しんでは、家の近所で練習に励んだり日仏会館でライブを楽しんだりしての帰り、お婆ちゃんの和風で黄色いカレーなんかも無理矢理食べさせられて、親しいつき合いがつづいていたようだ。フランス人というより生真面目なドイツ人みたいな印象を、たま〜に遭遇する私も持っていた。

月日が過ぎて共にPC業界に身を置いていた偶然もあり、彼等は海をへだてても一緒に仕事を進めるようになった。コンピューターの良さは何処に居ても仕事ができるところにある。ヤンは既に20名ほどのスタッフを抱える経営者になっていたがデザインが手薄なので息子に招聘がかかったのだ。
ニューヨークのテロがなければもっと違った展開もあったかもしれないがフランスはその影響をもろに受けて不況が根深く全体的にますます保守的になっているそうだ。
こんな時にこそ若者は自由に世界へ飛び出すべきだし交流すべきじゃないか?ダメ元でも勇気を持って。

ますます探すのが困難になりつつあるというパリ6区のアパルトマンはヤンの母上の持ち物だったので幸運にも住居を探す手間も省け、狭いワンルームさえ我慢すればむしろ日本より暮らしやすいらしい。が難点は湯。古いタンクに貯める湯を上手に使わないとすぐタンクが空になる、湯水のように水を使う日本人が倹約を身を持って体験できる絶好のチャンスだ。
なにしろ18世紀の石造りの建物なので排水口が余分にないので洗濯機は置けないのが辛いらしい、フミちゃんは慣れるまで外のランドリーが何時空いているか相当悩んだらしいがやっぱり朝、早い時間だとがらあきだそうでこのへんも人間の心理は万国共通なのですネと笑っていた。

仕事の進め方は日本より若干の余裕があり、生活を楽しむ彼等らしく、のんびりな息子達のペースに合っているのが良い。贅沢しなければ家賃も生活費も給料で賄える。
修労者健康診断にもどうにかパスし、希望すれば身体障害者支援も受けられると聞き、「言葉が出来てよかったよ」と息子も胸をなで下ろし、私は果たして日本では異国の障害者にまで労働許可や障害者支援をするほど許容の広い国だろうか?と安堵とともに疑問も持った。

フミちゃんは会社へ息子を送った後、語学学校へ行き、また迎えに行く生活に嬉々として馴染んで嫌がる様子もなく、彼女も海外が性に合っているらしい。道行く人の笑顔に支えられるという。

3ヶ月経った頃、すっかり安心しているとクリスマスバージョンのアニメを私のサイトに載せてくれるという...
「ラッキー!」単純に喜んでいたら毎日日替わりのアニメが連続で14日間つづいたのには驚いた。
「ん?もしかしてそんなに閑なんだろうか!日本に残した母親がホントは心配なんだろうか?それにしてもこのエネルギーは尋常じゃないし・・・はて?」
嬉しさより奴はマザコンか!?心配が先になって恐る恐るメールで確かめると
「そんな〜patraの為にだけそんな事するはずないでしょう、別件で作ったものを勿体ないのでちょっと直して流用してるだけ!」
あっさり切って捨てられた。な〜んだ、そうだよね、妙に安心したのですよ、それを聞いて。

フランスにはクリスマスは家族と過ごすという鉄則が在って、何が何でもこの時期は家族優先、恋人より家族なのだそうである、何処もかしこも休暇突入、全く仕事にならないそうだ。へ〜そうだったのか!?。

そして休暇を過ごす為と経理申告のために正月の元旦に二人は日本へ戻ることとなり「お正月はお店が休みで食料が買えないのが心配」と言うフミちゃんの呟きが聞こえた留守番役の私、隠居は俄然はりきったのです。
「まかせて、だいじょうび」
300円払えば配達してくれるスーパー三徳があるし!クリスマス前からあれこれ買い出しを始めた。
ところが...
我が家の老人は御歳84歳、なんとお雑煮用の合鴨をどこかに仕舞い忘れたか思い出せず2日も必死で探すも全く影も形もない。
鶏専門店から届けられた合鴨は見ていない私は3階分の食料を整理しに上の冷蔵庫と格闘中の事件なり、一体全体合鴨に何が起こったのか?ミステリーな話し。何処を探しても姿も形もない合鴨。
私は整理魔、老母はずぼら...悲劇はどうやらここ等辺に在りそう!推理すると母が冷蔵庫に仕舞い忘れた合鴨は、台所のシンクの、まな板の下に置き忘れられ一晩放置され、あちこち掃除して最後のゴミ出しの30日、ビニールの袋にぶよぶよとした赤い塊の上に更に料理屑を押し込んだ私が朝早くゴミとして出してしまったに違い無いと結論。罰が当たるような愚挙、¥3、800円を捨ててしまった私は落ち込んだ。
脅迫観念のようにゴミ出しを日常煩く念仏のように唱えていたための失敗。仕方がないので31日再度、買い出しに行く羽目になった老母が今度は慣れていないので行くのを嫌がっていたクイーンズ伊勢丹へ、そこの材料の良さに感激して今度は頼みもしないのに皿売りの大量なお刺身、ウニ、ローストビーフ等などを仕入れてきた。和食を孫に食べさせたい一心での衝動買いだ。
何時もの年はもう作らなくなったお煮染めにうっかり、日本の味、とばかりまた挑戦したから大変、やつ頭、蓮根、椎茸、叩き牛蒡、人参、慈姑、ウナギ入り昆布巻き、サヤエンドウなどお出汁でひと鍋づつ煮ていくので時間がかかる。
ダイコンの膾を作り、豚の角煮を煮て、中華風のネギと生姜のタレを作ったあたりで体力切れ・・・夜食に降りてくる父にお蕎麦を茹でてダウン。

息子達は午後二時過ぎに成田に着いたがまだ時間がかかるらしいので、ラストスーパートで料理を仕上げる。
貰いもののアワビとか通ハンの甘エビ、ホタテ貝とニンニク芽の炒め物など、有名な一口餃子なども買っておいたのは、帰ってすぐに料理をしなくて済むようにだが・・・
「御馳走はいらないよ!」と言ってきたので3階には肉ジャガなんかを作って置いてきた。

そしてパリから戻った息子達に出迎えの友人を交えて速攻、歓迎の宴会。が、しかし息子は2日前に食中毒だったのを内緒で帰国していたからさあ〜大変。
「えい」と言う魚に当たったそうで、盛り上がってわいわい食べているうち雲行きが怪しくなり孤独の部屋へ何度も直行する始末。
連絡してくれればこんなに買わず済んだものを、と老母と嘆く私!彼曰く「もう飽食するな!というご選択じゃないの、神様の」と一言。

合い鴨がなくなった時点で歯止めをかければ良かったのかもしれない。友人に来てもらって宴会をしても肝心の息子が全く食べられないのでは、気の毒なばかりだったので3日以降総べてキャンセル。
そうここうするうち時差ぼけのでたフミちゃんまで食欲をなくし、ダイエット中の私と老人は残りを焼き雲丹にしたり、中トロの冊をネギマにして鍋仕立て、誰も食べないタンをボイルしたりして大根と味噌で老人向けにしたり、仕入れた食材を成敗するのにおおわらわ。
こんな事はいかんなーとつくずく思った松の内だった。
お煮染めなんか本当に人気がなかったので来年は父の好物の慈姑だけに今度こそしようと心に誓う。
材料を無駄にするなんて料理人失格だった。

結局、私の愛情表現なんて自己満足に過ぎず、息子たちが静かに束の間、羽根を休ませたいのに妄想のうちに空回りの御馳走責め、だったみたい。
人の為とは偽(にせ)、自分の本当に由とおもうことを真剣にする事が今年2002年の目標だし、そうしなければ上手く年を取れない、と真剣に考えたから・・・今年は「自分の為に生きる年宣言。」遅蒔きながらしようと思う。


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