家業、または運命の反復

3年前、従兄弟が私を訪ねてきたのは、しごく珍しいことだった。
父方の最後に残った妹の長男である彼は、我家ではむしろ父のギター仲間だったから来る時は必ず父の所へ!が決まりなのに、その日は指名で私に会いたいという・・・・。

日中の陽射しが厳しい7月の終わり頃、土産のワインをさげ事務所にあらわれるなり、
「親父と同じで、どうも喉頭癌らしい、どうしようか?」と切り出した。
1ヶ月ほど前から咽が痛むため病院で検査したらほぼ80%の確率・・・と言われたそうだ。
「おふくろに聞いたんだけど前にパトラが、俺、親父に似てる運命だって言ってたのを思い出したので相談したいと思ってさ。まだ誰にも話してないんだけど・・・」と言葉をつづける。
もう既に知っているのなら隠すわけに行かないけれど人間はどんなに勇敢でも自分の残りの人生の時間、冷静に受け入れることなんかできない。
「どれ、調べてみるね・・・確かに65歳から空亡してる・・・という事は最晩年は予測不能!という運だから、ここは覚悟がいるけど、65歳までは大丈夫だ!とも言えるしね。どしたら良いか一緒に考えてみようね」と励ます。
もし癌であれば治療は最低限にとどめ、あとはリタイアし息子と奥さんに会社をまかせギター三昧の人生を送ってほしい、とかねてからの私見を色々と提案してみたり、知ってる限りの情報を交換もした。
「俺つくづく経営者には向いていなかったな〜」
「家業は弟に任せてプロのギタリストになってたら、きっと人気者になってたのに、でも後悔しちゃ駄目よ、病気にスキを見せるようなものだもの」と私も彼の才能を惜しんだが、あんなに沢山話しをした日は2度となかった。

立教大学を8年も掛かってやっと卒業するような従兄弟は、在学中にフラメンコギターばかり弾いていた。別に頭が悪かったせいではないが、実家が親戚一お金持ちだったので呑気だったともいえる。が、本当は密かにプロを目指したかったのかもしれない。
家業のハンドバッグ屋を継いでもらいたい一心の先代の親父さんは、だからギターも、大店の若旦那が凝る芸事の一つ、くらいに考えたのか厭な顔も見せずサークル活動にうつつを抜かしている息子の8年間をジッと耐えていたという・・・。
我が家の父の影響で、ウッカリはまってしまったギターはあと一歩で玄人はだしの凄い腕前だったが、プロになるには手が小さい・・・と本人は考えていたらしい。

そんな彼がいよいよ真面目に卒業を目指したのは父親である先代の思い掛けない発病がきっかけだった。
5年程の闘病生活も虚しく喉頭癌で帰らぬ人となった先代は享年62歳。
否も応もなく、長男というだけで家業を受け継ぐ事となりついでに莫大な借金も受け継いだ。 ということは残された資産も相続税なしで済んだ訳だが否でも家業に専念する他ない運命だった。
二代目の彼は店に新風を入れ、製造卸しから問屋へと方向転換し、積極的に海外まで買い付けに出てそれなりに効果を納めているように見えた。時代も後押ししてくれた。
一男一女もさずかり順風かと思わせたのに、兄弟同時に結婚式を挙げるほど仲良しだった弟と分裂しはじめ、会社を分けたあたりから雲行きが怪しくなった。 90年代に入る頃から商品の売れ行きが悪くなり、梃子いれも思うように行かない。
「又、倉庫を増やしたんですって、たいしたものね〜」
商売の何たるかを理解しない母が小耳に挟んでくる噂に私は気持ちが沈んだ。 なぜなら問屋業が倉庫を増やすということは在庫を抱えている事に他ならない。
私が広告業界の一線からリタイアすると同時に始めた易の勉強から看ると彼の商売は協力者に恵まれて、それなりに苦労もあるが決して潰れるような命式ではない。 が、寿命のようなものがあるとしたら行運が1年運と短く万一病気にでもなれば、アっと言う間に悪くなる運だった。しかも繊細で健康的な外見に似合わず“我と我が身を剋す偏官七殺”の持ち主だ。
それに加えて最晩年が空亡してる・・・という事は65歳以後は彼の父親と同じ運命を辿るのか。 いつの間にか先代の年齢に近ずいていたのを私たちも気づかないほど時代のスピードは加速度を増していた。
聞かれない限り言うべきことではないので胸にしまって数年経ったある日、彼の母親から事業がらみの相談のついでに尋ねられたのだ。
「亡くなった主人に何もかも似てるから、もしや・・・病気も似るんじゃ無いかしら」
「似ていないとは言い切れないから、予防の人参ジュース、飲ませてね」と私はさり気なく答えたのが耳に入ったのだろう。

とうとう来たか!彼の話を聞きながら咄嗟にギター復活論に熱弁をふるいメンタルケアに心を砕く事しかできない、無力な私だった。
治らない病なら悪戯に抗癌剤や放射線治療の苦痛を味あわせたくはなかった。そうすれば、のろのろと65〜か案外68歳くらいまで行けるかもしれない。ほんにそう思っていたからゆっくりギター三昧で遊んでほしかった。
「うん、でも商売もうまくない時期だもの、ギターなんか弾いてたら怒られちゃうよ」そして、
「おふくろだけが心配なんだ」ポツンと言う彼の表情は自分のことより何より独り残るはずもない母親(孫も外孫も居るのに)のみを案じていた。

その翌年の私の父の誕生日にギター持参で来てくれた時は「俺、こんな良い趣味を持っていたんだ、と思ったら泣けてきちゃうよ」
その言葉の意味を解るのは私だけ、まだ誰も知らない秘密だったので私は緊張のあまり悪酔いをしてしまったほどだ。
その後の治療はおもいがけず効果的で「良い先生だから、俺、命預けちゃう」とかすぐその気になるところにも育ちの良さが滲み出て、誰にでも好かれる彼は病気にさえ好かれなければ良い人生を終えるはずだった。 放射線の後遺症の火傷と髪の毛以外、変わった所もなく器量も落ちず本当にそのままいけそうだった。

「声が出なくなるくらいなら生きててもしょうがないや」などと言いはじめたのはつい最近だった。
「声帯取ったってパソコンがあれば平気よ」とホームページを見せると「こんな細かい字、読めないよ」と嘆いたが。
あまりにも回復したので欲が出たのか「これが最後で完全に癌を叩くよ」と再入院、再々入院をくり返し、ついに4度目の今年1月には二度と自力で歩けないほど消耗して自宅へ戻っり、それっきり声も出なかった。

私の姉は親戚外交一手引き受け人なので、見舞いに行くたび報告を欠かさないのだがある日、
「何でだろう、行く度にパトラの事を聞くのよ。猫の糖尿の為に毎日注射してる・・・と言ったらもう出ない声でホ〜〜〜っという表情をしてたけど?」
私は彼と歳は違うけれど誕生日が同じなのだ、それを知っている彼とこんな約束を実はしていた。
「癌になったら私はできるだけ治療をせずに運命を受け入れるから。君は君の意志で治療を選んだのだから、どっちが正解だったか天国で報告しあおうね」と。 選択肢は本人次第なのだ。

4月30日は晦日の支払い日、食事の介護をする息子さんがほんの少し部屋を覗くのが遅れた夜、8時過ぎソファーに座ったまま彼は逝った。
「迷惑かけたくない」が口癖のダンディだった。

逆順を悲しんだ伯母は通夜も葬儀も欠席し代わりに私の父母が揃って出席してくれた。
8年も大学にいたので友人の数が半端じゃぁなかったのも彼らしい。
葬儀は初代創業者の親父さん時代の番頭だった人で今1000店鋪の長である出世頭、Q社のオカダ社長の仕切りで無事に終わった。
丸3年に渡った、従兄弟の闘病は無駄だったのだろうか?どっこい、人生は新たな風が吹くものだ・・・

オカダ社長は 「経営のノウハウを聞きにくるのは二代目として彼なりのプライドから抵抗があったのかもしれない、でも三代目の君には何の柵もないのだから、いつでも来い」と力強く、新米経営者として若く残された一人息子に言葉をかけたそうだ。
先代の努力、二代目の忍耐、こうして人生はひとりでは計らい知れぬ徳の継続によって明日が新たに三代目にも開けるのである。
7日間のご供養のあいだ爽やかだったのは言うまでもない。 諦めの中からでも希望の兆しはかならず萌えいずるものなんだ、と感じ入った日々、ゆったりと時間が過ぎてゆく。
そして不思議なんだけれど偶然とは言えワイン好きな私の元に1ダ−スものワインが3日に届いた事にさえ見えない縁を感じとってしまう極楽トンボな私は・・・
食べる事ができなかった従兄弟に「おいし〜ぃよ、一緒に味見してね」と側に従兄弟が居るかの様に神妙にグラスを捧げるのだった。


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