15/1/2022

舛岡さんの押しかけ弟子

美術デザイナー舛岡秀樹さんに初めて会ったのはぼくが小学生の頃だった。
父が働く会社サンク・アールの若いお兄さんという感じで、たまにしか会わないのに子供の直感のようなものでハートのあったかそうなひとロックオンしていた。
父の弟子だったそうだけれど、当時はそういう師弟関係とかは全くわかってなくて、ただ職場に遊びに行くと皆いつも何か面白そうなことをやってるなー、と思って眺めていた。

その後舛岡さんは独立してデザイン事務所、ウエストコートを設立。
雑誌『コマーシャル・フォト』に載った舛岡さんの特集は作例が凄くカッコよかった。
当時はコマフォトで美術デザイナーが特集されること自体、稀だった気がする。

ぼくの方は父と同じムサビに入り、たまたま旅行で訪れたパリに残ってしまいムサビ中退。
結果的に父と似たようなルートを辿っていたのは、父の仕事や父自身に興味があったから、というのもあったと思う。
けれども2年のパリ留学を経て、さぁもう帰国して修行し始めようと考えたとき、真っ先に浮かんだのは舛岡さんのウエストコートだった。

サンクという選択肢は全くなかった。
その頃は父がサンク・アールの社長になっており、父の会社では修行にならないと思ったからだ。
サンクの創業メンバー5人の息子たち(幼馴染)のうち、知る限りでは2人くらいサンクに入ったようだけれど、良く云えばアットホームな雰囲気にぼくはどこか馴染めなかった。

修行するなら厳しい環境に身を置かねば、という若さゆえのストイックな思い込みが、パリで2年間自由気ままに過ごした反動としてあったのかもしれない。
帰国便の中で舛岡さんに手紙を書き、押しかけ弟子となった。

ウエストコートは体育会系の会社で、しかも時はバブル期。
CM美術の仕事が超多忙を極める中、松葉杖をついたビッコの新入社員は場違いできっと使いづらかったと思うけれど、皆受け入れてくれた。
尤も、常に人手不足で猫の手も借りたいくらいだったから絵が描けるだけ猫より少しは役割があったのだろう。
アルバイトが必要な時はムサビのJAZZ研から大量動員する口入れ屋も担った。

社員の出入りも激しく、1〜2日で辞める人が多かった。
緑山スタジオで大道具をしていた中学時代からの友人も、
「面構えがいいから」と舛岡さんにスカウトされたけれど3日で逃げ出した。

休みは月に一日あるかないか。帰れるのはたいてい日付が変わってから。
まともに睡眠時間がとれないため、社員全員が南阿佐ヶ谷の会社の近くに住んでいた。
当時まだブラック企業という言葉も概念もなく、そんな毎日を疑問にも思わなかった。

お給料も最低限だったけれど、
「うちの会社なんて学校みたいなもんだよ、仕事を教えてあげて給料まで払ってるんだから、こっちが授業料貰いたいくらいだよ」
と舛岡さんが言うと妙な説得力があり、(ホントそうだな)って納得していた。
ある意味、世間知らずなチョロい社員である。

実際、確かにモノ創りに関して教わることがたくさんあり、美大でよりもずっと多くのことを学んだ。
皆でデザイン画を描いて、それを舛岡さんが選ぶとき、いつも美術研究所の講評を思い出した。
新米でも大きな仕事をどんどんやらせてもらえた。
そしてまた、舛岡さんに「それでも市田喜一といちだぱとらの息子か」と叱咤されて自分のあまりの出来なさに、ひと知れず悔し涙を流したことも一度や二度ではなかった。

思い返すと、その頃の舛岡さんはしょっちゅう怒っていた。
ときには社員ばかりでなくクライアントにまで、しかもよくわからない理由で怒ることさえあった。
あまりに怒られ過ぎるとだんだん理由すら考えられなくなる。

ひとり名古屋に出張したとき、新幹線でもし座れないと困るのでグリーン車に乗って行ったら、舛岡さんの当時の奥さんに始末書を書かされたことがあった。
障害者割引があったので、実はグリーン車に乗っても普通の場合と変わらない。けれども弁解しなかった。
さすがに甘やかされた世間知らずも平社員がグリーン車に乗ると怒られる、ということは理解した。

皆、舛岡さんの人間的な魅力に惹かれて頑張っていたけれど、慢性的な疲れとストレスが溜まっていた。
居眠りしそうなので運転するのを怖がる同僚。
ぼく自身も疲弊して数十メートルしか離れていない駐車場まで歩けず十秒間だけタクシーに乗ったこともあった。
そして疲れは舛岡さん自身も例外ではなく、責任がのしかかる分、精神的にはいちばん大変だったと思う。

けれどもモノを創っているときの舛岡さんの眼は日頃のストレスも一時忘れたかのようで、そういう様子を見るのは常に楽しかった。
仕事とは直接関係のない、美術展用の立体作品を仕上げるとき。
スチロールの立方体から「だって、入っているじゃない」と言ってキャラクターを切り出すとき。
粘土でオブジェを作るとき。
仕事が多過ぎるのでときどきしかないけれど、そういう時間は特別だった。

あるときウエストコートの役員の方から、
「市田は本当は自分がここでどうなりたい!っていうのが無いだろう」と鋭い指摘をされたことがある。
不意をつかれて返す言葉がなかった。
小さい頃から面白そうだと思っていた父と同じ業界に飛び込んではみたものの、体力的な適性がまるでなく、結局モラトリアムの延長に過ぎなかったのかもしれない。

1年半が経った頃、検査入院となり早くもドクターストップになってしまった。
ぼくだけ定時退勤させるように計らってくださるも、有り難いけれど同時に申し訳なかった。
舛岡さんにも同僚にもすっかり迷惑をかけた押しかけ弟子は、2年保たずに貰ったばかりのボーナスをお返しして退社した。

けれどもあの密度の高い修行期間はやはりぼくにとって重要な経験で、機会を与えてくださった舛岡さんにはとても感謝している。
おかげでその後どんな仕事をしても辛いと感じることはなかった。
尤も今では、効率的に仕事をするためには休養、特に睡眠が必要なことを身を以て理解したけれども。


その舛岡さんが、身体はメチャメチャ頑丈だったお師匠さんが、亡くなってしまった。
2021年12月11日。
晩年は癌の手術を何回も受けていたそうだ。

最後に直接お目にかかれたのは2012年2月15日。
パリから東北震災の復興支援活動のために一時帰国していたときで、近況を報告し、久しぶりにいろいろなお話を聞かせていただいてとても楽しいひとときだった。

舛岡秀樹さん

糖尿病を患ったことで食事や体調管理をとても注意している様子だったので、もう顔色がドス紫になるまで飲み過ぎたりはしないだろうから、長生きしてほしかった。

舛岡秀樹さん

話の流れの中で「違う業界に進みましたが、ぼくは今でも舛岡さんの弟子ですから」と伝えた。

すると舛岡さんは少し考えるように間を置いて、
「たしかに、俺の弟子と呼べるのはキョウ君だけかもしれないな…」

それはあまりに過分なお言葉だった。
すぐに脱落したぼくなんかより、ずっと長年に渡って舛岡さんをサポートした大先輩方に申し訳が立たない。

けれども、もの凄く嬉しかった。
まるで押しかけでしかなかった者が初めて弟子として入門を認めてもらえたかのように。

そのとき撮らせてもらった写真が、舛岡さんのお別れ会*で遺影に使っていただけるらしい。
弟子としての最後の役目は、このどうしようもなくピンが来ていない写真をレタッチし、AIを使ってプリントできる解像度にすることだった。
本当に残念なピンボケなのが悔やまれたけれど、今となってはシャッターが下りただけまだ良かったと思うしかない。
おかげでレタッチは光栄な作業で、舛岡さんに教わったたくさんのことを思い返す時間だった。

舛岡さん、弟子にしてくださりありがとうございました。
どうか安らかにお休みください。

舛岡秀樹さん

※2月6日に予定されていた舛岡さんのお別れ会は、コロナの影響で延期になったそうです。

追記:コロナの影響で延期になっていたお別れ会が、2022年10月2日(日)12時〜18時に青山スタジオで開かれるそうです。
舛岡さんフライヤー20220909改訂
主催者の皆様のご尽力に感謝申し上げます。

  

Comments (4) 追悼文 Tags: — Kyo ICHIDA @ 2022/01/15 19:49

4 Responses to “舛岡さんの押しかけ弟子”

  1. 舛岡です 2/10/2022 at 9:55 AM

    父のことを語ってくださり、ありがとうございました。

    • Kyo ICHIDA 2/10/2022 at 3:07 PM

      ご記憶にないでしょうけれど昔お見かけしたことがあります。
      舛岡さんにはたいへんお世話になりました。
      こちらこそありがとうございました。

  2. 柏木大治 14/8/2024 at 5:41 PM

    舛岡さんがお亡くなりなっていたといま、知りました。20代の無知で何者でもなかった時期にウエストコートでお世話になっていました。あのころ、生意気だった私はどうしてもディレクターになりたくて飛び出してしまいました。舛岡さんもかなり無茶苦茶でしたが、私もいいオジさんになって少しは分かるような気もします。ありがとうございました。

    • Kyo ICHIDA 14/8/2024 at 9:14 PM

      はじめまして、柏木大治さんもウエストコートにいらしたのですね。
      当時を思い返すと恥ずかしさやら情けなさやらで未熟な自分がイヤになりますが、20代の若い頃でなかったら3日と保たなかっただろうなとも思います。
      随分時間が経ったものですよね。
      コメントありがとうございました。