「遺伝するから、子どもは持つんじゃないわよ」
母にそう言われたのは、学生の頃から一度や二度ではなかった。
昔、母は生まれつき抱える原因不明の筋肉の疾患(ミオパチーの一種)が子どもに遺伝することを心配し、医師に相談したところ、
「遺伝はしません」
と言われて安心して僕を産んだが、3才くらいでやはり遺伝が発覚。このことが「子どもは持つな」という言葉に繋がっている。
その意図するところはおそらく、
・障害を持った子ども自身が苦労して可哀想だから
・障害を持つ僕が障害を持つ子を育てるキャパシティーがないだろうから
・社会の迷惑になるから
といったところのどれかだろう。全部かもしれない。
「うん、そうだね」と答えるものの、心のなかで(自分は子どもを持つ資格のない劣った存在なんだな…)という寂しい思いはあり、せめて税金は人並みに払えるようになろうと思ったものだった。
確かに障害を抱えて生きることは不便な面もあるけれど、だからといって生まれてこなければよかったと思ったことはないし、むしろ逆だ。
「こんな身体に生んで!」と母は若い頃に祖母を責めたらしいが、僕はそんなことはなかったという点で
「あんた、いい子ね」と、どうリアクションしていいのかわからないことを言う変な母だった。
そんな素っ頓狂な母の言うことなので聞かなくてもよかったのだけど、妻は出会う前から元々子どもを持たない方針だったのでお互い意気投合。
僕たち夫婦は子どもがいないが、ささやかながら幸せな毎日を過ごしている。
しかし相模原障害者施設殺傷事件の一報を聞いたとき、説明し難い混乱と不快感に襲われた。
一瞬、障害を持つ可能性が高いので子どもを持たないという選択が、犯人の「障害者は生きている意味が無い」という考えの側に加担するもののように感じられてしまったからだ。
だがもちろんそれは違う。親なら誰でも子どもに健康であって欲しいし、無用なハンデなら背負わせたくないと思うのは当たり前のことだ。
それよりも、「障害者は生きている意味が無い」「税金の無駄だ」と考える人がいること、少なくともそういう考えを明確に否定できない人が案外多いかもしれないということが気にかかる。
障害者を生かすことは無駄なのか?
そもそも先天性障害はなぜ発生するのか?
推論とともに考察してみる。
なぜ先天性障害が発生するのか?
もちろん障害と云っても様々な種類があるが、太古の昔から常に存在してきた。地域や時代によって忌避されたり、偶像化されたりもしてきたようだ。
大昔の統計データは存在しないが、現代のような公害や汚染が無かった頃にも先天性障害は常に在り、栄養が良くなってもなくならない。先進国にも発展途上国にも在る。
必ずしも遺伝によるとも限らず、健常者からも生まれる。
このような遺伝子情報のゆらぎ、ブレやすさは、生物の多様性や進化の過程で必要なのではないだろうか。ブレの振幅が大きいほど、つまり非常に高度に多様化した種ほど障害も発生しやすいのではないか。まるで多様化を担保するための代償のように。
もしも生物の遺伝子情報が子孫に常に正確にコピーされ変異する余地が皆無となれば、個体差は発生せず、従って伝染病など単一の要因で容易に絶滅してしまうだろう。
確かめる術がないので仮説でありやや飛躍するが、もし一定の割合で常に障害が発生すると仮定するならば、強制的に減らしたとしてもその分増えるのかもしれない。例えば働かない蟻が常に25%いるというように。
いずれにせよ実際ゼロになることはあり得ない以上、誰かが引き受けなくてはならない役回りと捉えることもでき、それ故に畏敬の対象となる場合があったのではないだろうか。
障害者を生かすことは税金の無駄なのか
そもそも税金の本質は富の再分配を目的としていることを忘れてはならないだろう。
Wikipediaによると日本に於いては、
障害基礎年金1級 月額 約 81,258円
障害基礎年金2級 月額 約 65,008円
だそうで、先天性障害が該当する20歳前傷病の場合は所得に応じて減額・支給停止となる。
これは生活保護と比較すると意外に少ない額ではないだろうか。
働くことができなくなった者を保護する社会のセーフティーネットがもし税金の無駄だとするなら、それは老人介護問題や犯罪者の更生にまで拡大解釈されかねないだろう。
また人は歳をとれば、誰でもいずれ肉体や脳の機能が衰え、自力での日常生活が障害者同様に困難になってゆく。遅いか早いか、そうなる前にお迎えが来るか来ないかの違いでしかない。
そういう意味では老人施設での事件と障害者施設での事件は通底するものがあるように思える。
それに歳をとらなくても、健常者が事故や病気で働けなくなる場合も多々ある。
そのような、働けなくなった者に救済措置やサポートがなく、運が悪いと即終了な社会は、人類が築き上げてきた福祉制度やモラルの退行であり、近代文明社会の敗北としか呼べないのではないか。そんな世界で安心して子どもを生み育て暮らすことはできないだろう。
人間社会倫理の退行の兆しか
優生思想に根ざしたこのような弱者に対する攻撃や税金の無駄だとする論説は、景気の良い情勢ではあまり問題にならないが、社会経済が悪化すると浮上してくるようだ。
この事件も犯人が浅はかな考えをさも大義であるかのように仕立て上げて凶行を犯すことで、その実は、行き詰まった人生から降りたかっただけのようにも思える。健常に見えても心に問題を抱える人間は多い。
抵抗できず殺されてしまった多くの犠牲者、被害者やご家族のショックと無念、社会に与えた悪影響は計り知れない。介護職への侮辱ですらある。犯人の留置、裁判、拘置等にかかる様々な費用をも勘案すると、この犯人は自分自身の方がよっぽど社会に無駄を為す存在であることに気付かないのだろうか。
しかしながら、21世紀の現代に於いても世界各地でテロが頻発し、紛争も一向になくならない。世界が平和に包まれるほどまで人類全体のモラルの底上げなんてどうやら夢のまた夢だ。
たとえ寿命は延ばせても、人類の倫理面での進歩にもうあまり伸び代が感じられないのは気のせいだろうか?
そうであるなら、老後は進歩したロボットに面倒をみてもらう方が気が楽だ。
だが介護職員の待遇を改善する方がまだ現実的であり急務だろう。
いわゆる世間一般で言うところの障害とは…
わたしは個性であると思うの。
あの犯人こそが障害者だと思う。
そういう意味では他者の生命や尊厳を平気で踏み躙るメンタリティーってめちゃめちゃ病んでますよね…。
そしてそういう人達も含めていろんな人がいるのがこの人間社会なんですよね。
ごめん犯人は障害者じゃない、異常者だ。
与えられた命を精一杯生きなければと思う今日この頃です。
確かに、そして精一杯生ききってこそ見えてくるものがある気がします。まだ道半ば…。
ものすごくごぶさたしてますが、ドイツW杯のときお世話になったarataです。
おっしゃることすごくよくわかります。去年NHKスペシャルでやってた「生命大躍進」って番組を子ども(5歳)が好きで何十回も見せられてるんですが、番組で同じ解説をしてました。
カンブリア紀にいたピカイアっていうチンアナゴみたいな生物から人間までつながってるらしく、要所要所で遺伝子のエラーが起こって進化してると。
実はエラーじゃなくて進化だった、ってわかるには5000年とか1億年とかあまりに長い振り返りをしないと「あああれが進化だったのか」ってわからないんだろうなぁと。学者はわかってるのに一般人に浸透してないのは、小学校教育レベルの結構重要な課題かもしれないですね。
arataさん、お久しぶりです。
そうなんですか!
先天性障害についての仮説は専門家に叱られるかも?とちょっと心配だったので、同じ説があるなら安心です。
その番組探してみますね。
以前探したときは見つけられなかったこの「生命大躍進」、今日ふと思い出して某動画サイトで検索したらありました!
これかーって見てみたら、想像してたのとは違いましたが(子供番組だと思ってた)CG満載で凄く楽しめました!
植物から動物に遺伝子が移動っていうのがビックリです!
それにしても5歳でこの番組を好きで何十回も見てるって凄くないですか!?お子さん将来が楽しみですね!
重度の重複障害を持つ子供の親として、
今回の事件はとても心が痛みました。
障害を持っていても、この世に生まれてきたということは
生きる使命を与えられた、生きる力を持ってこの世に
生まれてきてくれたのだと思っています。
言葉が話せなくても、
歩けなくても、耳が聞こえなくても
自分の意思が表現できなくても。
1つ1つの命の重みは、
健常者、障害者でもかわらないはずなのに。
障害をもっているがゆえに、弱者として扱われる。
そんな社会自体の風潮がよくないのかもしれません。
自分達の意思をうまく表現できない我が子たちの代わりに
いま自分になにができるのか。常々悩み、考えています。
Luloahさん、コメントをありがとうございます。
仰るとおり、生きる力を持ってこの世に生まれてきてくれた大切な命です。
日々悩み考え続け、たとえ答えが出なくても、精一杯生ききるしかないですよね。
「見た目に障害とわかる人はまだいい、外見で判らない障害は理解されず辛い」と嘆く人もいますし、障害がなくてもどうしようもない苦しみを抱えた人も多いですよね。
傍から見ると、足りないものや失ったものばかり気にして持っているもののことを忘れている人も。
他者と比較することで無駄に不幸に感じてしまうものなのかもしれませんね。
Luloahさんが心を傷めずにお過ごしになれますように。
多様性のお話し、同意します。きちんと考えてこられた結果の論旨になるほどと感じ、自分の考えを確認できました。
Okudaさん、コメントをありがとうございます。
素人考えですが同意していただけて心強いです。
私の友達二人は一級障害者ですが毎日楽しくすごしていますよ(^^)(^。^
瀬戸さん、コメントをありがとうございます。
それは嬉しいですね!
例えば北ドイツ辺りですと、旧東ドイツの水泳のグロス選手みたいな身長2mなんてのがゴロゴロ居まして、僕らと比較すると腎臓の大きさは二倍あるから身体から毒素を素速く排出出来るし、大動脈の太さも我々より遙かに大きいので急激な運動量の増加にも対応出来ちゃう。
実にアスリートに向いた優れた肉体を持つ人達、ってのが実在する。
それは個人の単なる個性、なんだけど、それを全体主義にしちゃうと排他的でナチスになっちゃう。
文明国では、個人の権利は認めなきゃなぁ。
単一の構成員からなる組織は脆弱。
大学の研究室でもおなじ。
天狗鼻の医者の鼻をへし折ってケツを蹴り飛ばす役割が要るのさ。
007ムーンレイカーでもミシェルロンズデール扮するドレックスが選民思想だったのが発覚してジョーズが反旗を。
誰かを要らない、と発言する人は、何時か、誰かにそう言われるようになる、人生はそういう風に出来ている、ってイビチャオシムも言ってましたなぁ。
中三で車椅子のkyo君に出会わなかったらプログレにはまってCDやらライブやらで散財する事も無く、高校から毎週末に新幹線で東京に帰ってくることも無く、医科歯科の前で車椅子で反対側から来る通行人をデスレースの如く轢き逃げしつつ「あ、今何か、ぶつかった!」とか叫ぶことも無く、極めて地味でローコストの、つまらん人生だったろうなぁ。
以上思いつくままに。
僕らより遥かに太い大動脈に二倍の大きさの腎臓ですか!それは凄い!
多様な人々が平和に共存できるのが真の文明国なんでしょうね。
ムーンレイカー懐かしい!
もしあのお嬢さんが眼鏡をかけてなかったら?(脚本書き直し!)
中学時代に車イスで暴走してたことは深く反省してます。
今どきなら満員電車のベビーカー以上に非難されたことでしょう。
中学生の車イスを見かけたら逃げるべき、と言いたい。
気持ちはありがたい(笑)コメントありがとう。
「誰でもいずれ肉体や精神が衰え、」のところ、その後どうしても気になってて「誰でもいずれ肉体や脳の機能が衰え、」に修正。
推敲が足りませんでした。
特に欧米人は肉体の優秀さを誇示するような格好するじゃない?
それの延長線で閾値を超えるとナチスになっちゃう。
余所の宗教の信者に過干渉する、極端な話し、異教徒は殺しても良いと考えるのなら、それは現代文明とはマッチしない。
ローマカトリックだって長い歴史を経て随分と改心したでしょw?
新説ジョーズはメガネっ娘萌えw
暴走した車椅子を運転してたのは別にkyo君じゃないので非難されるのはオイラと数人だけなので大丈夫!
ベビーカーで疾走したこともありますが人身事故は起こしていないはず。
肉体の優秀さや美しさも案外儚いものなので誇示できるうちにしとくのもいいでしょう。
道徳教育を宗教に頼るような民度ではたかが知れてるしむしろ足枷になりかねないですね。
こんなに少子化だって騒いでるのにベビーカーすら文句言われちゃう世の中じゃ、暴走車イス中学生なんて強制収容対象なんじゃないかと…(^^;
いや、車椅子を避けない奴が悪い。
適当に歩いて駅へ向かうだけで、こっちを見てない。
前見て歩けと親切に注意してやったのさ。
ベビーカーは特に畳めないタイプ、大型化が間違い。
折り畳まずに公共交通機関利用可能になったのは某メーカーが何十年も(主に関西圏の厚労省関係の)医者のタニマチを継続してきた成果。
平均的(及びそれ以下それ未満)な人間には宗教で死生観道徳観を植え付けるのは昔から効果的ですから。
Pokémon GOで前見ないで歩く人激増してそう…(^^;
ベビーカー問題にしても、双方に問題ありということなんでしょうかね。
「日本は宗教なしでどうやって道徳教育をするのか?」と問われたのがもし新渡戸さんじゃなかったとしたら、「そんなものに頼るな」って炎上してそう(苦笑)
ポケモンは、もう下火っぽいですね。
アレをやるのは選挙権の無いヒトだけでイイです。
朝の大江戸線は多少は混むけど、大したことは無い。
でも、そこへ畳まずに大型のベビーカーで堂々と乗り込んでくるメンタルは、我が身を振り返っても、大変に異質。
社会で子育て、と言うのは、自分のケツは自分で拭く、そんな事すら実践出来ていないヒトが更に勘違いするだけ。
その元凶のタニマチの話し。
例えば、オペが終わってクタクタになって医局に戻ると、何故か自分のデスクに割と高級そうな仕出し弁当が置いてあるんですって。
ん?と訝しげに眺めていると、「あぁ、それね、食べてもらってエエんですわ。」と、横の同僚が。
周りのデスクにも同様の弁当が。
既に食べ終わったヒトも。
什器は使い捨てでは無くてちゃんとした塗り物。
食べ終わったら廊下の段ボールに戻して。
そう言う待遇を受けた人の中には、行き過ぎた配慮を実践しちゃうヒトも居るでしょうね。
弁当、一個貰って食べたことがあるけど美味かったよw
神戸牛のしゃぶしゃぶ弁当だった。
ポン酢にモミジおろし添え。
あんな美味い上品な肉食べたことありませんわ。
俺が医者上がりの厚労省の小役人だったら何でも言うこと聞いちゃう(嘘。
権力は必ず腐敗します。
それがベビーカー利権に繋がっている違和感、ってこと。
ゆりかごから腐っていてはアカン。
電車に乗らないからよくわからないけど、以前は折りたたみできないベビーカーは認可されないとか電車では畳まなきゃいけないルールだったのが、ベビーカーメーカーが高級弁当の差し入れを含むロビー活動を長年展開した結果それが変わったっていうこと?
こちらのバスでは車椅子とベビーカーは同じ扱いで共通の優先の場所があります。
「電車内では車椅子は畳んでください」なんて言われたら困っちゃう。
まぁ、だからこそ満員電車に乗らない人生を選んできたんだけどね。
まず、前提として、日本には満員電車がある。
利用人口も多い。
それは結構異常だけど、利用する側としては、どう頑張っても是正のしようが無い。
(新都知事は2階建て車両とか言っているみたいだけど、人口密度から考えて東京ではムリでしょう。客数は多く、更に乗降に時間かかるので。)
そんな中でみんな譲り合ってガマンして、何とか上手くやって来たところにイキナリ国の(間違った)お墨付きを得た特権階級がオラオラ、ベビーカー様のお通りだ、道を譲れ!と来た訳で。
そりゃ軋轢を生むしか無い。
受益者負担の観点からは、ベビーカーは公共交通機関への持ち込み有料(一律一回百円とか)、なら理解を得られたでしょう。
輸入物のベビーカーは兎に角大きすぎます。
タニマチやってるメーカーの製品は畳まなければ、それなりに場所取りです。
それが椅子に座れないヒトの立つスペースを不必要に数人分占拠する訳ですから。
抱っこして畳めば省スペースなのに。
何故それだけの努力を惜しむのか分からんね。
車椅子を畳め、はキチガイだな。
正に、足の代わりなんだから。
でも、そう言う発言は、恐らく誰からも出ないでしょう。
そして、この国では車椅子とベビーカーとは区別されていて、将来的にも等しく扱うようにはならないでしょう。
ロビー活動については、大体そんな捉え方で合ってると思いますよ。
政治献金そのもの。
単にベビーカー普及のために最初からやっていたかどうかは分からんけど。
その手の活動、製薬企業の方がエグいけどねぇ。
だから薬が安くならない。
超遅くなって申し訳ないです。
なるほど、、、円滑な解決を個々のモラルに頼るというのは限界があるので、困難でもやはりラッシュアワーの乗車率緩和に取り組んでいくべきなのだろうなと。
ベビーカーの人に限らず車椅子の人もそうだと思うけど、出来ることならなるべく混んだ電車には乗りたくないんだよね。
乗らざるを得なくて仕方なく乗っているのはおそらく通勤通学の人達も同じだから、電車が酷く混雑しなくなれば皆にとっていいはず。
現状では不可能に思えても、案外少子高齢化で実現するのかもしれないけど…。
結語としては、障害者は生まれない方がよかったのか?に対しては、んなワケねーだろっ!!って事で。
満員電車での通勤通学については、現状から覚醒して同調圧力を気にしない日本人が増えますように。
ありがとう、ありがとう。
パラリンピック開催期間中は全員車椅子移動義務付け、自動車禁止、所謂健常人の二足歩行禁止、でイイな。
御茶ノ水駅、医科歯科前の車道が車椅子の人々でラッシュになったら楽しいだろう。
駿河台下方面、水道橋方面、秋葉原方面、に向けて下り坂を疾走する車椅子軍団w。
片道切符、決して戻っては来られないww。
御茶ノ水は頂上だかんな。
真面目な話し、一度は経験してみたら良いと思う。
そしたら、現状よりも更に良いデザイン、機能性、耐久性、軽量化、長時間使えるバッテリー、な車椅子が出来るんじゃないか。
二足歩行といえば、個人的にはロボットの二足歩行は特殊な目的以外では効率が悪いと思うんですよ。
街全体や屋内も含めバリアフリー化していけば、ロボットを効率的に活用できる社会インフラが整うことになるんですよね。
そういう意味で機能性やデザインの検討を含めバリアフリー化を推進することは、高齢者や障害者のためのみならず、近い将来への重要な布石になるはずだな、と。
二足歩行する、要するに人間のやり方を模倣する動作機能って、昔のアニメの影響でもあんのかね?
アメリカで昔やっていたBattlebotなんか見ていても、日本のロボットコンテストとはまるで違う。
もっと、機能とデザインを洗練して貰いたいな。
BigDogとかWildCatとかなら軍用目的だから、四足歩行、疾走、に意味はあったんだろう。
騒音が元で不採用なのは惜しい。
バリアフリーだと所謂健常人(この言い方あまり好きじゃないですが車椅子を使わずに歩ける人々、じゃ長すぎてアカン。)にも楽な場面があるんだけど、目に留まらず、皆あまり気が付いていないのかな。
気の利かないちょっとした段差なんか無い方がイイに決まってます。
ロボットの二足歩行は昔のアニメの影響・・・もしかしたらそれもあるかも。
最終的には人間そっくりを目指すんじゃないかな。
善し悪しはともかく、人間を再現しようと研究・挑戦することで様々な技術が進歩していくんだろうなと。
軍用目的だとバリアだらけの瓦礫を移動できるロボットのニーズがあるんだろうけど、歩くより飛ぶ方が効率的だと思うんだよね。
あと、段差が多いのは日本の土地が狭いからかも(?!)
ターミネーターでキャタピラ付きの大型レーザーで人類を殺戮するマシンがあったり、ドローンを航空機並みに大きくして同様の機能を持たせたマシンがあったり、(名称としてはHK;ハンターキラーってターミネーター4に出ていたが。)モトターミネーターなんてのがあったりする中で、T800とかT1000とかの人間界に潜入する目的のために人間の姿を模倣するものもあったけど、それらはスカイネットの牛耳ろうとする世界では異端かつマイナーな存在に見える。
目的達成して人類が絶滅させられたら、それ以降は人類を攻撃する必要が無くなり、HK全ては目的を失う。
特に人間型二足歩行ロボットなんか人間の居なくなった世界では要らんからね。
人類を絶滅させた暁にはスカイネットはすっかりヒマになるのだが、どう発展するつもりなんだろ?
その結果は全てクラウド化だったりしてw
人間が頭と心臓と肺(と栄養補給と老廃物除去)だけで生きられるようになったとして、ロボコップみたいにするのが良いのかどうか?
R2-D2みたいな寸胴ドラム缶でもイイんじゃないか。
バスケットケースみたいなのもあるんじゃないか?
段差が多いのは道路事情が悪いからかな。
狭い車線に強引に付けた歩行者レーン又は歩道、大して役に立たない街路樹、ギリギリ過ぎる。
ま、歩行者からは歩いている事を理由に税金徴収出来ないからね。
ちょwバスケットケースは勘弁してください(苦笑)
マジレスすると、多くのSF映画で描かれているAIやコンピューターネットワークが進化した結果、人間を敵と見なし滅ぼすというシナリオが実現した後の世界は、程度の差こそあれ結局は人間が絶滅する以前同様に地球環境が悪化するんじゃないかな。
人工知能にも電力という形でエネルギーが必要なので。
海は綺麗になるかもしれないけれど、陸は人間含め動物が生きられない環境になる可能性もあり得るかも。
昔、初めて観たとき面白いけど荒唐無稽に思えたマトリックスの人間を電池にするという設定が、実はかな〜り示唆に富む内容だったなぁと。
スカイネットが人類殲滅に成功した後の世界を描いた「ターミネーテッド」誰か創ってよ。
ping一発送るだけ、全編一分で終わるw
もしも障害者として生まれたら、脱障害者になりたいと嘆くかもしれない。
もしも脱障害者になれなかったら、相談室で不登校になりたかった。
でも不登校にはなれなかったトホホ。
障害で学校に通うことができないと不登校にもなれないんですよね。
生まれつき身体障害者です言語で地獄味わっています
程度の差や早いか遅いかの違いはあっても、人はみんなだんだん障害=不自由さを持つものだと思うんです。
あとから不自由になる人は一層大変かもしれませんね。
私は恐らく発達障害者の立場の人間です。心無い発言ができる人が多い中で、ここの管理者様のように心の優しい方もいらっしゃることがとても嬉しいです。
自分の存在は非生産的で迷惑を掛けてばかりで、この多忙な社会では生きている価値が見い出せない事がしばしばあります。
それでも、生きてていいのかな?と勇気づけられる内容でした。
かなり思い文章になってお恥ずかしいです。
これからもサイトの更新楽しみにしています。
Kei homecomingさま
こちらこそありがとうございます!
発達障害を抱え様々な苦労をされることが多いかもしれませんが、このような明快なコメントが書けて感想を伝えてくださるKei homecomingさまが生きててくださって嬉しいです。
誰の助けも借りず自分の力だけで生きていける人なんていませんし、歳をとれば誰でもどんどん不自由になっていきますから、遅かれ早かれ皆同じなんじゃないかなと思います。
なかなか更新できていませんが忘れた頃にまた覗いてやってください。
この犯人は自分自身の方がよっぽど社会に無駄を為す存在であることに気付かないのだろうか。
なんだかんだでこれも優生思想の一種かな?って思ってる自分は
障がい者差別や弱者差別、優生思想の正しさも今の時代は認めざるを得ないと思ってる!
あえて貴方に犯人が窃盗癖、放火癖、サイコパスなど精神病患者だったら?と問いかけてみたいですね!事実は違うとしても
大体あなたの様な人から障害を無くし、健常者に変えて助けて弱者から強者に変えようと言う動きですら差別だの言われたら、どうするか?
障害を持った人が弱者と言われるのは人から自立できないからと言うのが大きいと思うし、弱者差別の主な正当性はそこにあると思う!
だからこその「遺伝するから、子どもは持つんじゃないわよ」って考えだと思う!
そして貴方が自分の優生思想で弱者と考えたのが犯人の事だったと
そして生物学的には確かに一定の割合で常に障害が発生する可能性も高く、それが間違ってないなら弱者を切り捨てるやり方も間違っては無いんだな
身も蓋も無い事言うと世の中弱肉強食だから…
弱者を切り捨てる事で強者が生きていける世界ですからね!
理不尽を避け、どうやって強く生きていくかを考えるのが先かと思います!
一応自分も発達障害で弱者の立場ですが、どうせ優生思想が正しく弱者切り捨ての論理が正しいのなら
そういった優生思想を自分の味方につける方法は無いかと探してます!
あなたも自分のできうる限りがんばって幸せをつかんでください!
最後に…人間をロボットにしてしまって皆で生きようってアイディアはかなり好きな方です。
何でって弱者がいなくなるから!倫理的な問題は生と死の境界は?って奴だけど…(脳を機械にした時、その人はその人か?)
個人的には人がみな肉体的頭脳的強者になった時、思想の違いが強者弱者を生まないか?って話の方が心配だな!
いただいたコメントの意図を全て理解できているか自信ないですが、ここにコメントしてくださったお気持ちはわかるような気がします。
ただ僕は犯人を弱者として捉えているというよりは、犯人が「周囲を不幸にする役に立たない存在」と決めつけた人たちの命を奪うという罪を犯したことで、もっと比べものにならないくらい大勢の人々を不幸にし、犯人自身が牢獄で税金によって生かされている存在に落ちたことが皮肉だなと思います。そのことを犯人は自覚していないのでしょうけれど。
窃盗癖や放火癖はもしかしたら治療できるのかもしれませんが、サイコパスは治るという性質のものではないらしいですね?(中野信子さんの本を読んだ程度の知識しかありませんがw)
例え僕から障害が無くなって健常者に変わったとしても、それで弱者から強者になるのかはちょっとわかりません、弱いままかも(苦笑)
世の中に弱肉強食な面があることは否定しませんが、
「弱者を切り捨てる事で強者が生きていける世界」というのは人類がコツコツ築いてきた文明社会を諦めていないでしょうか?
実際、弱者がより弱い者を攻撃する場合がほとんどで、本当に強かったら弱者を切り捨てる必要すらないのではないかと。
そもそも何を基準に弱者・強者なのかという話ですが、う〜〜んと遥か彼方の遠くの方から俯瞰して見たら、案外どちらも誤差の範囲な気がします。
反障害者の思考を浅はか、文明の後退などと言われているが、自分の反対の意見をレッテル貼りだけで排除しようとすることこそ浅はか、文明の後退ではないだろうか?
障害者が存在することで国家へもたらされるメリットを感情論を廃して客観的に示すことこそ、深慮であり文明的な意見だと思われる。
具体的に障害者だけの集団で、健常者だけの集団に勝る点を示して欲しい。
極端な例えになりますが、仮に隕石衝突など何らかの予測不能な事態で世界から光が失われ完全な闇に包まれた場合、普通の人は移動すらままならないでしょうが、盲目の人々には何ら障害なく適応できるでしょう。
国民を区分けして国家へメリットをもたらさない者は排除する、となったらそんな社会ってヤバくないですか?
もし仮にあなたが事故や病気で障害者になった場合、「もう自分は国家にメリットをもたらさない存在になったのだから仕方がない」と排除されることを受け入れますか?
そもそも排除の境界なんて誰に決める権利があるというのでしょう? ひと度そんなことがまかり通れば障害に限らず拡大解釈されるという権力の暴走を招きかねませんし、それってまともな国じゃないですよね。
「障害者が存在することで国家へもたらされるメリット」としてご納得いただけるかわかりませんが、街中で障害者を見かけるのが普通で社会参加出来る国はやはり先進国であり民度が高いと感じます。全く見かけなければその逆です。
アリの例えは間違いで、休んでいるアリは働いているアリがいなくなれば同等のパフォーマンスを発揮する。
更に人間と違って厳しい淘汰圧にさらされており、先天性障害を持つ個体は早期に仲間の餌にされるため、アリを例えに使うのは間違いである。
アリの話は単に発現割合についての例えです。
働きアリを減らすのではなく、働かないアリを減らすとどうなるか、という話です。
自分一人で生きていけない以上、生きる意味はない。
そうですか?あなた自身が自分一人で生きていけない状態にならないといいですね。
まあ社会的には劣ったものや障害者をなるだけ排除せず
庇護するってのが正しいとされているので、表立って批判する人はあまりいないでしょう
ただ、現実に先天的に障害をもった子を欲しがる親なんていないのと同様に
優生思想はあって当然なんですよ
だれだって優れたものでありたいし、わざわざ苦労もしたくないですし
無能や犯罪者は、身内にとっても社会にとっても迷惑ですから
堕胎にしても個人でやるのはOKで、社会がやるのはNGってのに欺瞞を感じますね
まあ社会が強制的に排除の方向に向かうと、いろいろ問題ですけど
結局、大半の人は劣った人や障害者にいいイメージなんてもってませんし
出来れば関わりたくないし、身内にいたら絶望ってだけですね
ミクロでは貴方も嫌でしょ?そんだけのことですよ
ああ、なんかこの流れってこちらがいちいち返信しなければいいんですかねw
社会に強制的に排除されなかったおかげで自由に生きて仕事できて幸運でした。
健全者が障害者になるまでには、少なくとも、社会人で有れば、税金、保健を払って来た。
生まれつきの障害者はとは、根本的に違う。
あまり理解されてない気がしますが、税金払ってる生まれつきの障害者だっていますし、健常者でもかなり高収入じゃない限り払った税金や保険料より受け取る方が多い受益超過だそうですよ。
こういうふうに障害者を攻撃する健常者って、自分の取り分が少なくなるのを恐れて怒ってる感じがしますね。
生まれつきの障害者です。
障害者とはどこからどこまでを指すのか? 教えてください。
私は社会人になり、税金・社会保険料なども納めてきました。
私は障害者年金など公的年金も貰う区分にもいないし貰えない、
介助もしてもらうこともない、
両手指にも障害があって、両手指で合計4本しか動かなくても、
誰かに荷物も持ってもらうこともないし、
手助けをしてもらうことはありません。
それでも、そんな私は自分のことを障害者だと思っています。
なみさんはじめまして、コメントありがとうございます。
本質さんへのコメントかと思いますが、返信がうまく機能していないようですみませんでした。
ギランバレー症候群でしょうか、、、
障害があってたいへんな状況なのに援助に頼らず、税金や保険料を納めているなみさんは立派です。
健常なのに生活保護を騙し取るような人もいますが、障害があっても不自由な身体と何とか折り合いをつけながら頑張っている人もいるんですよね。
まず障害者、と一括りにしない事です。事件犯も重度障害者だけを狙ったと聞く。重症障害者は生まれてきてはならないか…障害があると分かっても産むと決断した親の気持ちは分からない。そして寝たきり障害者、老人はどれだけ苦しいのか死にたいのか、もわからない。ただ1つ安楽死がないこの国では尊厳死をさせてもらえないと言うこと。重症障害者の親は自分がいなくなったらこの子はというのは理解できます。自分の大事な子供を残して先にいけないとか。重症障害者じゃなくても自殺しますよね、人間辛くなったら死にますよね?やはり死ねない人の為に安楽死を認めてほしいです。重症障害者を全くの他人の判断で痛みを与え殺した事件は一人の健常者(脳は異常だと思った)の男の勘違いでした。座間事件も自分をまるで神だと思ってるのか勘違いの犯行でした。本当に死にたかった人はいなかったと。こんな勘違い野郎に殺される事件を無くすためにも安楽死は必要。実行するかは…家族や本人が決める事ですから
尊厳死に関しては議論や検証がなかなか進みませんが、それを制度として認めてしまうとそこからだんだん歯止めがかからなくなる危うさを孕んだ時代なのかもしれませんね。
であれば尚更きちんとした枠組みを検討する必要がありそうです。
この国は結局安楽死とかそういう方法は取らないでしょう
100年後も何の夢も希望のない社会のままなのです
安楽死・尊厳死って制度化の議論をするだけでも善し悪しに関わりなく猛烈な批判にさらされるでしょうから、腰が引けちゃうんでしょうね。
夢も希望もないかはさておき、100年後もこの国が存続できていることを願います。
私は生まれた時より精神、肉体共に神経過敏、決して他者に懐かず、何事にもおびえて生きてきました。
そしてそれは特に父の癇癪持ちによって何倍にも増幅されて育ちました。
今、私は安マンションにて辛うじて一人暮らしの体裁を保てているのですが、毎日・毎時間・毎分・毎秒、周囲からのわずかな物音に怯えながらヘッドホンで耳を塞いで生きています。
でかい物音でも聞こえようものならとっさに死を選びたくなるほどの神経過敏による精神の脆弱性を持っています。
精神病院の医師からは統合失調症の烙印を押されています。
私はこれまでも今も自分がなぜ生きているのかが分かりません。
正確に言えば分かっていて、それは死ぬ痛みが怖いから、なのですが…
ただ、ハッキリと分かっている事は、それは「どういう事情であれ、精神的な弱者はこの世界で生きて行くには、世界は余りにも過酷で、そしてそこにいる人達は鈍感である」という事です。
そんな世界で生きる私には、自分が生きる資格・資質を持って生まれてきたとは到底思えないのです。
たまたま人間の世界、それも弱者にも優しい先進国で生まれたから生き延びられているだけであって、これが真の弱肉強食の動物の世界に生れ落ちていたら、私などは生まれてすぐに食い殺されていたことでしょう。
話は変わりますが、正直言って私には犯罪者の気持ちが少しわかります。
犯罪に走ってしまう人とは、元来とても精神の虚弱なタイプなのではないかな、と思います。
そして人生の日々で己の身を嘆き、それはやがて理解の無い世間への恨みに変わり、それが凶行へと至る…精神的健常者には分からないかもしれませんが、私には理解できる話です。
そう、精神的弱者にも「理解してほしい」と言う思いはあり、それが踏みにじられたり、相手にされなかったりで、長年の月日をかけてストレスはフラストレーションとなり、それが恨みつらみとなり、あるトリガーを境に爆発する…犯罪のメカニズムって意外とそういう単純…だけれども根深いものがあると思います。
結局のところ、生物の生死を分ける決定的な境界線は「精神の強弱」にあるのではないかと思います。
たとえ身体障害者であっても、強く健康的な心を持っていれば、この社会では生きて行くことは十分に可能なのです。
逆に、常に他社におびえ、自我の確率すらままならない精神的弱者には、健やかに生きていける場所などどこにもないのではないかと思えます。
長くなってしまいましたが、私ももう年を取ったと言える年齢であり、これから先の人生を考えると「自決」の文字が何度も頭をよぎります。
そして、それに対する恐怖感やためらいは、若い頃よりもかなり薄れてきています。
それは単純に「自分がこの先社会に貢献しながら生きて行けるヴィジョンがもう見当たらない」と言う理由につきます。
最後になりますが、私は私の両親を恨みます。
「よくもこんな精神虚弱に生み、それを増幅させるような育て方をしてくれたな」というものです。
両親は自分達は結婚をし家庭を持ったという古い昭和のタイプの自負心を持っているようですが、私には腹立たしい限りです。
「子供を産み育ててはいけない人間」というのは、私は確実に存在していると思います。
そしてそれは私も当然のように含まれています。
私はかつては同棲もしたことがありますが、もう恋愛もしません。
自分が他者を幸せにできるヴィジョンが見えないからです。
両親のような他者の人生をつぶすような無責任な人間にはなれません。
yokkenさん、はじめまして。
もっと気の利いた答えを返せる人が他にいると思うのですが、それでもyokkenさんがエネルギーを費やして何者でもない僕のブログへ書き込んでくださったことを真摯に受け止めています。
もちろん答えを期待しているのではなくて、ただ思うことを吐き出したかっただけだとしてもです。
心にハンデを負った人は外見ではわからないぶん、ひと目で身体が不自由だと見てとれる僕のような者とはまた違った生き辛さを抱えてとても苦労されてきているのでしょうね。
想像ですが長年「社会に貢献できていない」と思い込むことでご自分に不必要な厳しい評価を下し、周囲から責められているように感じて、物音に怯えてしまっているのではないでしょうか?
でも、貢献って何でしょうね? いわゆる世間で云うところの「社会貢献」ができない人は本当に生きる価値がないのでしょうか?
僕はそうは思いません。
もちろんせっかく生まれてきたからには誰かの役に立ちたいし、誰かを少しでも幸せにしたいし、できることなら社会に貢献したいです。
でもね、そういうわかりやすい貢献じゃなくても、生きているだけで知らず識らずのうちに誰かの役に立っていることってあると思うんですよ。
例えばyokkenさんが暮らしているマンションの家賃で大家さんは助かりますし、経済を回している一員ですよね。一人暮らしってどうしても出来ない人もいるからたいしたものです。
それに例え話ばかりで恐縮ですが、誰かが車椅子に乗る僕を見て、
「自分は不幸だけど歩けるんだからアイツよりはマシだな」って少し気を持ち直してもらえたとしたら、それも貢献に数えちゃいます。
そして仮に本当に全く何も役に立たない人がいたとしても、生きていていいんですよ。僕たちが住んでいるのは弱肉強食の無法の世界ではなくて文明社会なんですから。
そうじゃなかったら、歳とってボケたり寝たきりになってしまったらもう生きてちゃダメっていう地獄のような話になりかねません。
ただこう書くと、「老人でも昔は働いて税金を収めていたのだから生まれつきの障害者とは違う」って言ってくる人がいるんですよね。
このコメント欄含め、ネットでそういう意地悪な意見を目にすることは多いでしょうが、気にしなくていいと思います。
以前炎上した「年収890万円未満は”社会のお荷物”」という説がありました。
世帯の総収入が890万~920万円を超えるまでは「受益超過」となるので、それ以下の世帯はいわば「社会のお荷物」という論旨でした。
https://president.jp/articles/-/22916
この内閣府の試算を基にした計算が正しいのかどうかはわかりませんが、
「自分たちの払った税金が社会の役に立たない障害者に使われるのはムダだからイヤだ」
と言うような人は、余裕がないから怒りを抱えるんじゃないでしょうか。
そんな人には「あなたは払うより受け取る方が多いんだから、心配しなくても障害者にあなたの税金は使われてないよ」って安心させてあげたい気もしますよね。
すみません話がそれました。
yokkenさんにご両親をゆるせとは言いません。
ただ、ご自分自身をゆるしてあげて欲しいのです。
弱い自分をゆるして「弱くたっていいんだ、苦しくても頑張って生きているだけでいいんだ」と認めることからだんだんと見えてくるものがある気がするんです。
どうかお願いします。
自分には発達障害があります
発達障害って今ではかなり認知されてきましたけど、ぼくが子供の頃はまだ世間では知られていなくて。
それで原因がわからないから周りから変に思われたりして大変な苦労があったでしょうね…。
もっと広く理解が進んで、うまく折り合いをつけてやっていくことが容易になるといいですよね。
先天性疾患を完全になくす方法?
理論的にはありますよ。ですが、法律で禁じられているはずですが……
ヒトゲノムを先天性疾患を起こさせないように「作り替える」事が「許される」「社会」であるならば、
「障がい者は……云々かんぬん」なんて概念は無くなるんじゃないですかね?と私は思うわけで。
そう、遺伝子を自由に組み換えるニンゲンを作ればいいのです(至極暴論で申し訳ない)
映画の『ガタカ』みたいに将来そういう社会になるかもしれませんね。
それである程度は先天性疾患の苦しみから開放されるでしょうが、例え遺伝子を組み替えたとしても障害は無くならないばかりか、新たな問題に直面して生命の神秘の深淵を垣間見ることになるんでしょうね。
今の日本に障害者を抱える余裕は既に無い
社会のお荷物は苦しまないよう慈悲を持って屠殺すべきだ
無論こういう自分も障害者になったのなら自死を選ぶ
その論で行くと「余裕ありませんから屠殺しますか〜、あ〜それでもまだ余裕ないですね〜お年寄りもしないと〜」っていうことになりそうですね。
だって認知が衰えて問題行動するようになったり足腰が弱ってトイレにも行けなくなったら障害者とたいして違いませんし、よほど運が良くない限り誰でも終いにはそうなるんですよ。
いざそうなったときあなたが自死を選ぶのかに興味はありませんが、実際そうなってみれば「自分は生き続けていいんだ」っていう理屈を必死で探すか、惚けてわからないふりをするんじゃないですかね。
健常者って常に健やかな者ですよね?
常に健やかな者なんて一人もいないと思うのですが。
全員が何かしらの障害を抱えているか、そういう時期があるものなんじゃないのでしょうか。
前々からこういう突っ込みどころを感じながら生きている者です。日本の制度はおかしい。
常に健やかな者、たしかにそう書きますね!
時の流れとともに何事もうつろい変化してゆきますから、仰るとおり常に健やかであり続けることは難しいですよね。
障害者のみなさん、健常者のみなさん、諦めないでください。
健常者でも川口春奈のように別人に化ける者もいるのです。
アイドルのような顔をしているのでてっきりそういう方なのかと思い込んでいましたが、そんなことはなく、
帰蝶様のような美人や美久のような怖い女性の役もこなすようになりました。
それどころかはーちゃんねるというYouTubeでどんどん何にでも挑戦するという一面も見せ始めました。
人間は外見だけでは決まらず、自分の気持ち次第で何にでも化けられるということです。
障害があろうがなかろうが関係なく、彼女のように別人に化けられる可能性は充分にあります。
どうか、諦めないでなりたい自分になってください。
もし今の環境が邪魔であるのなら、それを変えるための努力をしてください。
今の場所の環境を変えられないのなら、別の場所に移動するための努力をしてください。
人間は努力と思考次第で変われるものです。
自分のことを障害者だと思うことで精神的に救われる人がいる反面、逆に障害者だと思えば思うほど自信をなくし性格が歪むというタイプもいます。
後者の人間は健常者であっても努力をすることで変わった人間がいるという、前例がしっかりあることを忘れないようにすることで歪みにくくなると思います。
健常者が変われるのに障害者が変われない筈はありません。それなら障害者が健常者に近付ける可能性も充分にあるのではないでしょうか。
人見知りの人間であっても人見知りでなくなる可能性はあります。たとえ顔がブサイクな人であっても性格をイケメンにすることなら出来ます。
人間は死ぬまでが勝負です。生きてさえいればいくらでも変われるものです。
なりたい自分になる努力を諦めずに続けたいですよね。
ぼくも性格だけは元気でいたいです!
死ぬまでが勝負!本当にそうですね。
障害者をバカにする人こそ死ねばいいのにと何度思ったことか。
ネットでそういうニュアンスのことを書き込むと返り討ちにあうというか、炎上とまではいかなくとも逆にバカにするスレッドで埋められたりするんですよね。悔しいです。
いつの時代もいじめてくる人間のほうが強いなと自分の無力さを感じます。
いじめられる人間の味方をする施設が出来ているだけマシなのかもしれませんが。
障害者のことをバカにしていた人たちも、老いて衰えたときにやっと気づくことってあると思うんですよ。
浅はかな言葉に傷ついたり悔しい思いをすることもあるでしょうけれど、なるべくお気になさらず。せいいっぱい生きましょう!
まだコメント受け付けておりますか?
いつでもどうぞ!