初めて会ったとき、別れ際に励ますように握ってくれたあったかい手をよく覚えてるよ。
日付も。2010年6月3日、アコーディオン奏者のtacaさんのライブだったんだよね。
撮ったことを忘れていたけど、そのときの写真が出てきたよ。
まだ十年経ってないなんて意外すぎるよね。
そのtacaさんとしおりさんは岡山の実家がすぐ近くで、小学校の時から一緒に通学してたんだってね!
しおりさんが班長でtacaさんのお兄ちゃんが副班長だったって。
子供の頃からよく知ってる幼馴染とパリで再会って、なんかいいよね。
小学校の頃から剣道ずっとやってて。身体は小さくてもきっと強かったんだろうね。
地元の剣道界隈で知れ渡っていたから、進学を機にテニス部とか女子らしい部活に入るんだけど、その度に
「お前なにやってんだ」
って知らない先生に怒られて剣道部に連れ戻されたっていう話は笑ったよ。
フランスに住むようになって、こっちでも剣道をしようかと思って道場に行ってみたら、
「竹刀をドアのつっかえ棒にしててさー。神聖な竹刀を、ありえんわ!」
って怒ってやめにしたんだよね。
武道を真剣に嗜んだ人に特有な、一本筋の通った姿勢の良さを感じたよ。
(身体は小さいけど態度はデカイ)っていうのも鉄板なネタだったね!
N.Y.で911のカウンセリングをしたり、ユネスコの研修でエチオピアに行ったり国際経験も豊富だったんだよね。
ロンドンにも住んでたんだって?
あれ?そういえばしおりさんの英語って聞くチャンスがなかった。
中学のときは生徒会長だったのに、何故かフランス語だとヤンキー口調になるときあるよね。
だんだん知り合って、どんどん親しくなっていった頃、あの震災が起きたんだ。
震災の三日後だったっけ? tacaさんが声をかけたメンバーがうちに集まって。
初対面の人も多くいたしあまりにも甚大な災害にみんなショックで固かったけれど、しおりさんの人柄で少しずつ和んで。
フランスでボランティア団体を正式なものにするとなると手続きも煩雑そうだし、何より責任が伴うから最初躊躇していたよね。
しおりさんに、
「一緒にやってくれる?だったらやる」
って言われて。
わかった。サポートするよって答えて、それで友達から、復興支援のためのアソシエーションを一緒にする間柄になったんだよね。
そして親友になった。いや、戦友かな?
ミュージシャンやらクリエイターやら、舞踏家、パントマイマー、スタイリスト、建築家(唯一カタギっぽい響きでズルい!)とか、アクが強すぎるメンツだったから、姐御肌のコーディネーターしおりさんがボスとしてほんとドンピシャだった!ていうか天職だったんじゃない!?
しおりさんのキャラじゃなかったらまとまらなかったよ。
活動は予想より遥かに大変だったけれど……ね。
動機はみんな様々だったと思うけど、とにかく日本のために何かしたい一心で。
トモくんはチャリティーコンサートのし過ぎで生活が苦しくなっちゃったし、私生活や仕事に影響が出たメンバーもいたよね。
今冷静に振り返ると最初の一年なんて無理し過ぎてるし責任の一端を感じるんだけど、当時はなんて言うんだろう、地震のない安全なフランスに居るんだから、せめてその分頑張らなきゃ、みたいな気持ちだったんだ。
チャリティーって関わった人がある種の無理を負担し合うみたいな面があるけど、無理が過ぎると継続が難しくなるよね。
思うに活動することで自分自身の気が紛れるというか、あの頃は日本に縁のある大勢の人たちが癒やされることを必要としていたんじゃないかな。
そしてしおりさんは常に人のために頑張る人だったから。
コミュ力抜群なしおりさんの幅広い人脈のおかげで、たくさんの人に助けていただけて。
そんなしおりさんと、ひきこもりでひと前に出たくないタイプの僕は真逆だけど、それでもウェブ担以外にも役割をくれて一緒に活動させてもらったおかげで、バタバタすることで気が紛れたんだ。
それがなかったら、何もしないで閉じこもったまま悶々としてたかもしれない。
意見が違うことももちろんあったけれど、たくさん話し合ったね。
メッセンジャーに残ってるテキスト量もハンパなくて。
読み返すとたくさんの思い出が押し寄せて、クラクラしてくるよ。
ただ、不本意ながら年寄りで心配性なせいでツッコミ役みたいになっちゃったのは、厳し過ぎたんじゃないかって反省してるんだ。
募金を預かったらカフェにも寄らず必ず直帰ルールなんて、煩い老害そのものだよね。
なのにしおりさんはいつも尊重して支持してくれて。
それでなくとも震災復興支援のボランティア活動って、責任は重いけれどゴールが見えなくて達成感もないし、どんなに大変でも無償だからといって疎かにできないし、売名アレルギーなのに売名行為と思われがちだし、実際売名目的で来る人もいるしで、疲弊するばかりなのは仕方ないけれど。
振り返ると、個人的にはもっとああすればよかったっていう反省点や後悔がいっぱいあるよ。
しおりさんはいつも人の心に寄り添うことを大切にしていたのに、そのしおりさんの心にはちゃんと寄り添えていたのかな、って。
唯一良かったことは、活動を通じてたくさんの人達と出会えたこと。
そして仲間のみんなと活動していく中で、自分自身がより見えてきたし、学んだことが多いよ。
僕なんて狭量で、日本のためにフランス人に寄付をお願いするのがだんだん辛くなってきちゃって。浅いよね。まぁ僕のことはどうでもいい。
とにかくそれでもなんとか続けてきたのは、自己満足でも祖国のために何かしたいことや、仲間をサポートしたいのももちろんだけど、
それにもましていつの日にか、光くんが撮りためてくれた記録映像とか観ながら、
「あのときはあんなことがあって泣いたね」
「このときはこんなことがあって笑ったね」
って老後の懐かしい思い出話ができるときがきっと来るって思ってたから。それが楽しみで支えだったんだよ。
例えばこんなこともあったよね。
チャリティーコンサートの会場でメンバーが集まって話してたら、しおりさんが飛んできて、
「ちょっとみんな、散って!散って!」
怪しすぎる黒服の集団になってるから!って。
そんな思い出の茶飲み話すらもうできないなんて、寂しくて堪らないよ…。
なんだか急になにもかも色褪せてしまって。
でもしおりさんは決してブレないんだよね。一貫してて凄いと思う。
本業の仕事を減らしてでも、この活動は続けたいって言ってたよね。
しおりさんのいつも変わらない正義感と人間愛に触れると、なんだかすごく安心するんだ。
今の時代にとても貴重な気がして。
それで、しおりさんの何がいいって、真面目なばっかりじゃなくて、はっちゃけててめっちゃ面白いからさ!
愛嬌があって面白いって無敵でいいなぁ。
ファンキーなしおりさんの爆笑写真載せようかと思ったけど、ふみちゃんが「わたしなら化けて出る」って言うから自粛。
いやほんとはね、化けてでもいいからまた会いたいんだけど。
大変な中でもよく笑ったし、きっとだんだん良いことばっかり思い出すようになるからさ。
「ごめんけどー」っていう独特の言い回しをまた聞きたいよ。
私生活ではお互い、夫婦仲はすごく良いけど子供はいないカップルでもあったよね。
フーちゃんしおりさんのこと凄く大切にしてるし、しおりさんもフーちゃんに大きな愛情を注いで。そんな二人を見るのが好きだった。
もし子供がいればしおりさん凄くいいお母さんになっただろうね、間違いないよ。
2015年の後半からだったっけ?だんだん体調がおかしくなったのは。
最初は深刻な病気だってわからなくて。
2016年の3月11日には、強い痛み止めを飲んで石巻、気仙沼、陸前高田に行こうとしてたよね、
今後の活動を模索していた時期で。
「こんな体でアホかもしれないけど、行かなきゃいけない気がする。」って。
凄く心配だったから、緊急入院で行けなくなってしまったけれど少しホッとしたよ。
結局フランスでは正しい診断がつかなかったね。
2016年の熊本地震の直後に日本に帰国して診察を受けたら、ステージ4の癌で。
余命2年の宣告をされたけど、当時から絶対生き抜くっていう強い意志を持っていたよね。
難しい手術を何回も耐えて。
フーちゃんも何度も日本へ行って支えて。
標的薬も運良く型が合って。
常に前向きに頑張っていたよね。
抗がん剤しながらでも食欲があるっていうのが凄くてびっくりしたよ。
それにしおりさんの送ってくれる写真、いつも凄く元気そうなんだよね。
気にしていたアトピーも治って綺麗で。
とても余命宣告を受けた末期がん患者になんて見えないよ。
やっぱりしおりさんの生命力とガッツはハンパない!
だから、ステージ4の大腸がんで、肝臓とリンパに転移があるっていうのがどんなに深刻な状況なのか、アタマの片隅で理解しながらも、しおりさんなら、きっとなんとかなるんじゃないかって。
しおりさん自身も医師のポテンシャルを引き出せる賢い患者だったと思う。
主治医の先生も必ず健康にフランスに帰らせる、って言ってくれていたし。
実際、凄く頑張って、あとちょっとで完全復活!というところまで行ったよね。
奇跡の回復だって。
一昨年の9月には「いま、主治医と話した。術後経過は順調、抗がん剤もしなくてよいと。フランスに帰る書類準備始めてくれるそうだよ。長かった戦いが終わるよ」って聞いて、やったー!って、凄く安堵したよ!
だけど翌月、小さな転移が見つかって。
それでも泣き言なんて一切言わず、いつも我慢強く前向きに治療に取り組んでいたよね。
なんで私だけこんな目に、みたいに全くならないところがさすがだし凄く共感するよ。
岡山に会いに行く予定が僕の方が入院しちゃってポシャったのは一生の不覚で今でもずっと悔やんでるんだ。
そしてお試しで遂にフランスに戻って来られた去年の4月、まだ家具も揃ってない新居に来てくれて本っ当に嬉しかった。
凄く久しぶりにみんなで集まれて、楽しかったね!
しおりさんを車で送って、家に戻ってすぐに大きなテーブルをポチったんだよ。次回の集まりに備えて。
なのにその、次回の集まりが、しおりさんを偲ぶ会になるなんて…
最後の苦言みたいになっちゃうけど、年齢からして僕が先だよ!?
しおりさんみたいな代わりの利かない人が先に卒業して行っちゃうのは困るよ。
それにしおりさん人気者なんだから困ったり泣いたりしている人があちこちにいっぱいいるよ!?
まったく、肉親を亡くしたときより悲しいのはどういうわけなんだろうね?
やっと見つけた理解し合える仲間に会えなくなるって、こんなに寂しいんだね……
岡山に駆けつけた実穂さんが葬儀の日の様子を知らせてくれたよ。
式場の控室に着いて、まず気づいてくれたフランソワと抱きしめ合って、パリのジャポネードの仲間の想いを伝えました。
その後、お母様が気づいてくれて、泣きながら抱きしめ合いました。
しおりさんはこの3か月の間、体調の悪い自分の姿を見せたくなかったのでしょう、人に会うのを拒んでいたとのこと。亡くなる三日前も、まだ生きたいと言っていたそうです。お母さんに、あれはこうやっておいて、これはこうやってなど何かを言付けすることもなく、弱音を吐くこともなく、最後までまだ生きると信じていたとのこと。ご自分の娘ながら、この子はすごいと思ったそうです。
反対に、何も言付けされなかったから、やりかけの仕事があって、中途半端になってないか気にされていました。ジャポネードのみんなからの気持ちを伝えたあとも、「ジャポネードで何かやりかけて途中になって迷惑かけていることはありませんか?」と聞かれましたが、今現在で懸案事項などなかったと思うので、「ありません、大丈夫ですよ」とお答えしました。
お父様は雰囲気が以前とちょっと変わっていて、最初はわからなかったのですが、気づいてご挨拶しました。髪を伸ばされていたのです。願懸けされていたと泣きながら話してくださいました。
フランソワには、私が初めてしおりさんに会ったときの写真をスマホで見せました。13年の10月、Galerie Vivienneでの「花は咲く」のイベントで歌っている様子などを。懐かしそうにそのころの写真を見て、ふと、フランソワが「遺影に使った写真もふみちゃんや享ちゃんたちと一緒に映っていた。たぶんそのころ(5~6年前)の写真かもしれない」と言ってました。
それから、先にも書きましたが、最後にお別れの式で棺に花を入れていくとき、担当の方がJAPONAIDEの花の胡蝶蘭をはずしてフランソワとお父さんに渡されて、それがしおりさんの両ほほに添えられました。ああ、みんなの想いが伝わるなあとそのとき思いました。それから順に足元まで花でいっぱいになりました。フランソワは何度もしおりさんの額にキスをしていました。ずっと気丈でいらっしゃったお母さんはお別れの時にもう泣き崩れんばかりでしたが、息子さんやお嫁さんたちに支えられ、ちゃんとお別れなさっていました。
岡山はその日は雲が多めでしたが、笑顔のしおりさんらしい、秋晴れのお天気でした。
フーちゃんが何度も額にキスしていたって読んで頭が痛くなるくらい泣いちゃったよ…
しおりさん…もっともっと生きたかったよね……
以前しおりさんのご両親がパリにいらして、サバンナカフェでご一緒させていただいたとき、
美人のお母様が、しおりさんの名前の由来をふみちゃんに教えてくださったんだって。
(本の栞のように)人の心に目印になるような人になって欲しいっていう願いを込めて名付けた、って。
しおりさん、まさしくそういう人になったよね。
ひとまず僕の役目も終わったので元の生活に戻るけど、これからは「しおりさんならどう思うかな?」を指標にして残りの人生を生きるよ。
一緒に過ごせた時間はいつまでもかけがえのない思い出です。ありがとう。
*写真にはしおりさんがメッセンジャーで送ってくれたもの等、撮影者不明のものが含まれています。クレジットの記載等ご要望がある場合はお知らせください。
shiori you are in our hearts and all around
I agree, if not, I can’t stand it
読んでいるうち途中から涙が止まりませんでした。
お会いしたのは短い時間でしたが、しおりさんの強い意志と情熱の火は、私の心の中でいつまでも燃えています。
心からご冥福をお祈りします。
十文字先生、ありがとうございます。
十文字先生がパリに長期滞在された2013年の夏は最高の思い出です。
しおりさんがコーディネートしてくれたウクライナのExpoとか、牡蠣とウオッカでの打ち上げとか。
思い出はずっと残ってあたたかい気持ちにしてくれるので有り難いです。