この小説のことは河内タカさんが紹介されていて知りました。
1965年生まれの美術家、会田誠が書いた純粋な小説「げいさい」を一気に読んだ。
そう、約300ページもあるのに一気に読みたくなるほどとにかく面白いのだ。その文章のキレの良さと登場人物像たちの会話のやりとりのテンポが心地い…河内 タカさんの投稿 2020年8月13日木曜日
著者が同い年なこともあって興味を持ち、すぐに買って読みました。
1986年11月2日の多摩美術大学の学園祭を舞台にした夕方から明け方までの話なのですが、日付が具体的なために気づいたことがあります。
このとき武蔵野美術大学空間演出デザイン学科の2年生だったぼくは、この同じ日の夜、後述する事情でタマビの芸祭にいたのでした。
そんな同時代性があり自分もどっぷりと浸かっていた界隈を描いた話が面白くないわけがありません。
美術に関わりのない人でも楽しめる青春小説ですが、やはり美術予備校経験者には「あるある!」と声を出さずにいられないことばかりです。
感想に関してはタカさんがこの上なく簡潔で全面的に賛同するしかないものを書かれているので付け加えることはありませんが、埋もれていた記憶をかつてないほど呼び覚まされたので、この機に『げいさい』を読んで思い出した芸大・美大受験体験を振り返ってみたいと思います。
ただ、とても個人的な話なので『げいさい』を読む方が有意義なのは間違いないです。『げいさい』は変なタイトルだと思ったけれど、読んだら誰かに話したり書いたりせずにいられない不思議な力のある傑作でした。
- 中学生、母に油絵を却下される
- 高校に行かず美術予備校に通う
- 最初の戸惑い
- 初めての芸大受験
- 浪人にも仲間が必要
- 好きな作家がみんなムサビ中退だった
- 何処を受けるか?
- タマグラと日芸映画学科
- 空デの入試
- 初めての合格発表
- 芸大二度目の挑戦
- 美大の多様性
- 1986年11月2日
- 芸大の呪縛を解く
- 恩人のこと
中学生、母に油絵を却下される
ぼくが東京芸術大学デザイン科のことを知って入りたいと思ったのは中一のときです。
理由は先ず第一に、家から近いからでした。
身体が不自由なためにあちこち入学を断られてやっと入れてもらった文京二中で美術部に入ったぼくは、
「美術部に入ったから油絵具買ってくれる?」
と頼んだところ、母から即座に、
「油絵なんて食えないからダメ」
と却下され、リキテックス(アクリル絵の具)を渡されました。
「え〜?なにこれ…」
「油絵具より速く乾くのよ」
「……(それは、いいかも…)」
父は学費が払えなくなってムサビの油絵科を中退したそうですし、ファインアートで食べていくのが困難なことは中学生にも容易に想像ができましたので納得するしかありません。
このとき「美術系に行くなら芸大デザイン科が最高よ」という話を吹き込まれました。
40倍という倍率は当時まだ現実感が伴わず、ただ両親ともに美術系で小さい頃から絵しか描いてこなかったし何とかなるんじゃないか(と思ってしまうところが世間知らずですが)、もしもそんなに倍率が高い大学に入れたら、祖父の出た東大建築科より凄いって自慢できる!という不純な動機で無邪気に皮算用したのでした。
(でも小学校も中学校でもさんざん入学を断られたし…)という不安がよぎりましたが、美術系でしかも大学ともなればもうそういうことはないんじゃないかな?という期待もありました。
ちなみに中学の美術部でアクリル絵の具を使うのは(みんなのと違う…)という居心地の悪さはありましたが、先生は大目に見てくれたので油絵のフリをして厚塗りの絵を描いていました。
(ちょっとした事件もあったのですが割愛します)
高校に行かず美術予備校に通う
以前にも書きましたが高校に行けなかったぼくは、中学を卒業してすぐ「お茶美」こと御茶の水美術学院の「高校生デッサンコース」に通い始めました。
石膏像を描くのが初めてだったのでよくわからず、帰りに丸善で『アトリエ』という雑誌の木炭デッサンの基礎を解説したバックナンバーを買いました。
後でよく見るとそれはムサビの油絵科と彫刻科の学生たちによるデッサンで説明したものだったので、このとき知らず識らずムサビ流がインストールされたかもしれません。
高校には通わずに絵とバンドに明け暮れる毎日は友人たちや家族のおかげで楽しいものでした。
大学の受験資格は大検で取りました。(大検でもちょっとした事件が起きましたがそれも割愛します)
最初の戸惑い
高校生デッサンコースからデザインコースに移ったときに最初のつまずきがありました。
道具がそれまで慣れ親しんできた木炭から鉛筆に変わったことで、デッサンが楽しく描けなくなってしまったのです。
油絵科や彫刻科は木炭でデッサンをしますが、日本画科とデザイン科は鉛筆デッサンなんです。
それまで木炭の大きな面で気持ちよく描けていた石膏像が、鉛筆の線で面にしなければならない感じに戸惑い、描くスピードも遅くなりました。
とはいえそんな個人的な好みは言っても仕方のないことで、数を描いて慣れるしかありません。
鉛筆は細部を描き込みやすい画材なのにもかかわらず、雰囲気だけの描きかけ状態でガス欠になったようなデッサンばかり積み重ねてしてしまい、見かねた講師から
「もうこれ以上描けない!っていうところまで一回描いてみろ」
というもっともなアドバイスをもらいました。
それで二週間をかけてぱっと見た印象は白っぽいけれども実はすごく描き込んだ、写真を目指したようなモリエール像を描いてみました。
木炭ならやらないような表現なので自分としては初めて鉛筆ならではのデッサンをしたように感じました。
そのデッサンを見て件の講師はちょっと可哀相なものを見るような表情で、
「うん、まぁ、入試でこれが描けるかどうか、だよな」
と、これまたもっともなひと言なのでした。
そう、実際の入試では1日、つまり7時間で描き終えなければなりません。
ぼくのしたような描き方で間に合うはずがないのでした。
初めての芸大受験
そして芸大の入試本番では、デッサン以前に困ったことがありました。
階段を上るのにとても時間のかかるぼくはそれなりに早めに行ったのですが、試験会場である教室に入る前に、校庭に受験生全員が受験番号別に整列させられたのでした。
おそらく試験開始ギリギリの時間まで受験生を教室に入らせないためなのでしょうか。開始時刻数分前になってようやく試験官である学生の引率で並んで教室に入っていきます。
松葉杖をついたぼくはこれについていくことができず、階段でどんどん追い越されて自分の教室が何階なのかもわからなくなってしまいました。
まさか美術系の受験で整列して行進させられるとは思っても見ませんでした。やっと自分の入るべき教室を見つけたときはイヤな汗をかいて青ざめていたように思います。
席はモチーフから最も遠い三列目でした。
多才な芸術家として知られる池田満寿夫氏はこの座席運が悪く、毎回遠くて芸大受験に3回失敗した話は聞いていました。(池田氏は「この大きさにしか見えない」という理由で石膏像を紙いっぱいではなく小さく描いたそうです)
美術研究所のものと異なり、埃ひとつない石膏像は朝日を浴びて輝き、ひどい近視の眼には真っ白にしか見えません。
とはいえ、三列目でよしとするべき個人的事情もありました。
デッサン中はときどき絵から離れて後ろに下がり、形を確認する必要があるのですが、二列目と一列目は椅子が低くなっていくため、これに座ってしまうとぼくは立ち上がることができないのでした。
もっとも、一列目になればモチーフはよく見えるものの、後ろに下がるスペースはほとんどないのですが。であれば、立ち上がらなくてもいいから形を狂わせない覚悟で、よく見える近くの席だったほうがやはり良かったことでしょう。
一次試験では眼がすべてを決めると言っても過言ではないのですから。
そして持参したお弁当で昼食を済ませ、午後2時を回った頃になって追い込みに入るところで、予期しないことが起こりました。
突然手足が痺れだし、気持ちが悪くなってしまったのです。
そんなことになった経験が無かったので驚きました。
なかなか治まらないので、ポケットに入れていた飴を試験官に見つからないようにこっそり口に入れました。
普段は大阪のおばちゃんみたいに飴など持ち歩いていないのですが、出掛けに母に渡されたのです。まるでこうなることを見越していたかのように。(ちなみに母は大阪出身ではなく江戸っ子です)
暫くするとムカつきは落ち着き、手も動かせるようになりました。
もしかしたら低血糖のような状態になっていたのかもしれません。
なんとか描き続けることができました。
浪人にも仲間が必要
とはいうもののやはり一次試験であっさり落ちました。
長々と不合格の言い訳を書いているみたいになってますが、単に力不足です。
(まぁ初回はそんなもんだよね)ということで、芸大しか受けていなかったぼくは一浪になりました。そもそも高校時代の三年間浪人していたようなものなので、生活は何も変わりませんが、取り敢えずすぐ教習所に通い始めました。
運転免許を取って行動範囲が広がったのは大きな変化でした。
その頃、中学時代の友人の紹介で同じお茶美に通う友人ができました。
剣道をやっていたというRは身長180センチ超えのイケメンで、黙っていればモテるのですが話すと変人であることがバレてしまうのでした。
フィジカルもメンタルも正反対(Rは楽天的でぼくは心配性)でしたが一緒に行動するようになりました。
デッサンこそ苦手なものの、彼のユニークなところは平面構成の課題で遺憾なく発揮されました。
いかにも美大受験のためのそつがない小利口な絵ではなく、泥臭いけれどもブラックのようなキュビズムを彷彿とさせる作品になっていたのです。
近くで見ると雑なのですが、遠目には部屋に飾りたいと思わせる色彩でした。
Rは美術予備校では異色な作風でしたが、最年長の初老の講師(『げいさい』のクロさんのようなポジション)にとても面白がられ評価されていたがゆえに、笑われながらも一目置かれる存在でした。
そんなRはまさに昔のキュビズムの画家に影響を受け、油絵を描いては美術協会に出品したりしていたのでした。じゃあなぜ油絵科じゃなくてデザイン科なのかというと、
「油絵科じゃ潰しが効かないからな」
とあっけらかんと言うのでした。
好きな作家がみんなムサビ中退だった
自分自身に関しては、受験のためのデッサンや絵に飽きがきていることを自覚しないわけにいきませんでした。
立体の課題はまだ楽しめるものの、興味が映像や舞台美術などの分野に移り始めていたのです。
当時はまだ、美大に映像系の学課がありませんでした。
そんなある日、お茶美にムサビの先生方がいらして説明会が開かれました。
それまで芸能デザインと呼ばれていた舞台美術等の学課が、次年度から空間演出デザインという名称に変わるという内容でした。
来年入れば第一期生になるそうで、平面に飽きていたのもあって視覚伝達デザインではなくこの新しい空間演出デザイン(通称:空デ)を受験することを即決しました。
第一志望は東京芸大のままでしたが、武蔵野美術大学にはちょっと特別な思い入れがありました。
中学から高校の年頃に好きになった作家が、気づくと全員ムサビ中退だったのです。
例えば荒川修作氏の作品がずっと大好きでした。
それから赤瀬川原平氏が尾辻克彦のペンネームで書いて芥川賞を受賞した『父が消えた』は当時最も好きな本でした。
それに中学の頃に読んだ篠原勝之氏の『人生はデーヤモンド』はぼくにとってオトコの教科書でした。まだクマさんが笑っていいともに出たりして有名になる前のことです。
そしてやはり中学時代からのアイドルだった高橋幸宏氏など、美術以外の分野で活躍している人が多いことも面白いと感じていました。
しかも荒川修作氏と赤瀬川原平氏は、ムサビ時代に父と飲み友だちだったと後年知って仰天しました。
何処を受けるか?
一浪では芸大一本ではなく私大も受験するつもりだったので、これでムサビは空デに決めましたが、あまり具体的に通う場合のことまで考えていませんでした。
体力もないし、行く気がない所まで受けるようなことはしたくありません。
タマビはグラフィックデザイン科、通称タマグラを一応Rと受けることにして、個人的に興味を惹かれたのが日大芸術学部の映画学科でした。
美術予備校から日芸映画学科を受ける人なんて他にはいません。絵の実技試験は無いので当然です。当時いかに絵から離れたがっていたかが伺えます。
映画学科は出願時に「監督コース」や「脚本コース」「演技コース」などを予め選ぶようになっていました。
そこで、大学に問い合わせの電話をかけました。
「脚が不自由なのですが、監督コースを志望しても問題ありませんか?」
「はい、問題ありません」
きっぱりとしたポジティブな回答に安堵して、芸大以外に3つを受けることに決めたのでした。
タマグラと日芸映画学科
最初は世田谷の上野毛校舎でタマグラの一次試験だったように思います。Rと一緒に願書を出していたので一次の学科試験の席が近くでした。
当時のタマグラは美大では珍しく、学科試験に通らないと実技試験が受けられないのでした。
一科目目が終わるとRが低い声で、
「よくわかんないところ、市田の答え見ちゃった」
「そっか、Rは眼がいいもんね、全然見ていいよ」
次の科目では答案用紙がRからもっとよく見えるようにしました。変に聞こえるかもしれませんが競争意識とかは全く無くて、むしろ美大で学科試験に通らないと実技試験が受けられないなんてバカげていると感じていたんです。
美大の学科試験に関してはいろいろな逸話を聞きました。例えば造形大の学科試験が簡単過ぎて高校時代の唯一の100点満点だったという友人もいれば、偏差値70の進学校に通う現役なのに同じ造形大の学科で落ちた、なんていう話もあり、油断をすると足元をすくわれかねないのでした。
ふたりとも一次は無事通過しました。
二次試験の朝、試験会場に着いて校舎に入る前、ちょっと坂になっていてぼくは転んでしまいました。幸い怪我はしなかったのですが自力では起き上がれません。するとすぐに男の人が助け起こしてくれて、
「頑張ってね」
と声をかけてくれました。励ましの言葉が嬉しかったです。
人体の任意の部分をモチーフにして平面構成する試験を受けて家に帰ると、日芸映画学科の一次試験に通った報せがありました。
二次試験は翌日で、タマビの試験3日目と重なっていましたが、迷わずタマグラを棄権して日芸のある江古田に行きました。
二次試験は写真を何枚か見せられて物語を書く作文問題だったと記憶しています。
三次の面接試験に臨むと教授たちから開口一番、
「君は脚が悪いから監督コースは無理だよ」
「字がしっかりしているし脚本コースなら良かったのにねぇ」
いきなりそう来たか〜と食い下がるも、最も痛い、
「他の学生の迷惑になるから」
という既視感のありまくるひと言で、あぁこれは圧迫面接の類ではないなと感じました。
まぁ人に迷惑をかけることを厭うようではそもそも監督など向かないでしょう。
こうして日芸映画学科とタマグラが両方消えたのでした。
空デの入試
実は全ての入試会場に自分で運転して車で行っていたのですが、ムサビが最も遠くてちょっとしたドライブでしたから、ちゃんと時間に間に合うように辿り着けるかどうかが試験そのものよりもプレッシャーでした。
ムサビの入試はストレスというものが不思議と全く無かったことを覚えています。
整列して行進させられるようなことはもちろんなくて、リラックスして臨めましたし試験も難しく感じませんでした。
実技は春の詩を読まされて、それにインスパイアされた情景を描く、というような出題でした。
ランチャームっていうんでしょうか、ポリエチレンの醤油入れに自分のよく使う色を予め何種類も作って持参していたのが時間内に仕上げるのに役立ちました。これは色を作る時短になるのもありますが、チューブ絵の具は重いので一枚描くには充分な程度に量を減らして荷物をより軽くするためです。
そして最後が静物デッサンでした。モチーフはマネキンの手と黒い照明器具と石膏でできた立方体か何かだったように記憶しています。
静物デッサンは石膏像に比べるとポリゴン数が圧倒的に少ないこともあってそこまでは時間がかかりません。
出題者が注視するのはカタチの正確さはもちろんですが質感の描き分け、それに同一の平面上にきちんと乗っているか、というようなごく基本的なことでしょう。
アトリエも芸大のようには混み合っていなくて、マネキンの5本の指が自分の方を向いている敬遠されそうな席でしたが気になりませんでした。
初めての合格発表
ここまで結果発表は自分では見に行っていなかったのですが、空デの発表はお茶美から受験した4人でぼくの車に乗って見に行くことになりました。
片道1時間以上はかかる道のりを、運転が大好きだというIくんがドライバー役を買って出てくれました。行きはみんななんとなく高揚感のあるドライブ気分です。
残念だったのは、その中で受かっていたのがぼくひとりだったことでした。
合格者は教務課のような所に書類を取りに行くらしいのですが、自分の不合格を知ったばかりの現役女子が
「貰ってきてあげる」って脚の悪いぼくの代わりに取りに行ってくれたのでした。(やさしい…ありがとう…)
入学試験と名の付くものを受けて「入っていいよ」と言ってもらえたのは初めての経験だったので嬉しかったですが、喜べませんでした。みんなで受かっていればもっと良かったことでしょう。
このときの空デの倍率は12倍ほどだったそうで、案外低いと感じたのは芸大のせいで倍率の感覚がインフレを起こしていたんだと思います。
帰りもIくんが爽やかに、
「運転するよ!」
と言ってくれて、新宿までが混んだけど楽させてもらいました。Iくんの運転は巧かったです。
芸大二度目の挑戦
けれども本命はいよいよこれからです。
東京芸大、うちから10分。
グラウンドに並ばされるのは前年と同じでしたが、Rが一緒だったおかげで迷子にはならずに済みました。
席はまたもや三列目でしたが、それは仕方ありません。
無心でヘルメスを描きました。
このときは具合が悪くなることもなく、7時間描き続けることができました。
試験が終わり部屋を出るとき、Rがぼくのデッサンを見て、
「いいな、よく描けてるな」
と言ってくれました。
そして結果は、一次で敗退。
二時間ほど寝込みました(苦笑)
せめて一次を通っていればもう少し頑張ろうという気持になれたかもしれませんが、2年続けてデッサンで落ちるようでは脈がないと言わざるを得ません。
半分冗談で「芸大一次は視力検査」と言ったことがありますが、視力以前にカタチを掴むモノの見方とそれに伴う表現とが充分に出来ていなかったんだと思います。
結局美術予備校では情報やヒントは得られても、美術ってそもそも習うようなものでもなくて、孤独な観察の中から自分で見出し身に付けていくしかないのかもしれません。
こうして長かった受験が終わったのでした。
ちなみにこの年、倍率44倍となった芸大デザイン科にお茶美からは合格者ゼロという非常事態になり、お茶美は冬の時代に突入してしまうのでした。
(当時のお茶美の同期の何人かは多浪してその後東京芸大に見事にリベンジしました)
美大の多様性
さて、こうして空デ第一期生となったのですが、残念ながら授業料の安い国立の目論見が叶わず高い私大の学費を出してくれた母に感謝です。
ムサビは思ったよりとても居心地の良い場所でした。学内で学生がお花見をしていたりするし、猫もいました。
脚が不自由ということで相談するとすぐに職員・来客用の駐車場を使わせてもらえることになり有り難かったです。
美大、特にデザイン科は自分たちの教室にデスクがあるので、学校の延長のような感じでした。
空デの初日、ぼくの前の席に座っていたAさんが振り返り、
「きみ、タマビの試験会場で転ばなかった?」
と言うのです。
「あ…転びました!」
「あのとき助けたの、オレ」
「え〜〜〜っ!?わ〜〜〜あのときはありがとうございました!」
美大の世界は狭いかもしれませんがそれにしてもなんという偶然でしょう!
この話はだんだん盛られていき、
「オレが(ヤベっ、遅刻する)と思って試験会場に着いたらいっちゃんが向こうの方からゴロゴロ転がってきた」
とAさんが面白可笑しく言えば、
「助けてくれたAさんはてっきり試験監督だと思った」
とぼくが返す定番ネタとなったのでした。四浪のAさんはいちばんオトナで頼れる親分肌だったのです。
クラスメートには現役も多浪も入り混じり年齢も出身地もいろいろで多様性があるところが良かったです。
失われた高校生活を取り戻すべく拗らせていた身としては恥ずかしい思い出も多いですが、ある意味理想的な環境でした。
また同時に、実は案外アグレッシブな自分の性格に肉体がついて来ないことで苛立ちを募らせてもいました。
絵を描きたいというモチベーションは相変わらずしぼんだままでしたが、立体の課題や講義も多いため美術予備校時代より描く機会そのものが減っていました。
そんなある日、「これを落とすとマズいことになる」という噂の共通絵画という必修科目がありました。静物デッサンに淡彩で着色するような課題だった気がします。
この課題でぼくの点数は満点に近いものだったそうです。
芸大入試一次のデッサンに2回とも通った仲良しのHくんより良い点というのが不思議でなりませんでした。んなわけないじゃん、と。
ムサビに入る前からいつの間にかすっかりムサビ風のデッサンが染み付いていたのでしょうか。(最初に買ったデッサンの参考書を間違えたかも…)
1986年11月2日
あの頃、タマビとムサビの芸祭は毎年同じ時期に開催されていました。
タマビの芸祭はオールナイトなのですが、ムサビは夜は閉まるのでオールナイトができません。一説によると、ある事件をきっかけに元女子寮だった建物に幽霊が出るようになり夜間出入り禁止になった、という噂もありますが、その真偽のほどはさておきタマビほど人里離れていないムサビでオールナイトをすると近隣から苦情が来そうではあります。
芸祭中日のこの日、ぼくは軽音とジャズ研のバンドをいくつかかけもちしていて、ライブハウスと風月という学食と野外ステージを行ったり来たりしていました。
おまけに「ぬらりひょん」という一年生ガールズバンドのドラムの女の子が何かの事情で参加できなくなり、急遽代わりにカーナビーツの曲を叩いたり。
空デで隣の席のKくんはぼくの倍くらい出番が多かったので、芸祭で見かけるときはいつもむき出しのギターを持って歩いていました。楽しくも慌ただしい日でした。
そしてみんな高いテンションのまま夜8時までには校外に出されるのでした。
それで同じ学科の上級生の発案でタマビのオールナイトに行こう、しかもただ行くのではなくキャノンボールレースで、ということになったのでした。
僕たち2年生と3年生で計7台くらい車が参加しました。どちらかというとタマビのオールナイトに行くためというよりは、目的はレースでありゴールがタマビなのでした。(キャノンボールレースと言っても信号無視まではしません、念のため)
各車ルートは自由でタマビを目指します。
今となってはもはや時代とズレてしまっている感覚ですが、当時は美術よりもガソリンを燃焼させ横Gを感じるリアルなゲームに夢中になりました。
友人Tのナビで多摩美に着くと山の中という感じで、入り口のもの凄く急な坂を見て正直
(この大学に入らなくてよかった…)
と思ったものでした。入試が上野毛校舎なのズルくないですか。
この坂を登った辺りに85レビン(AE86にはオートマがありませんでした)を停めて初めてのタマビの芸祭に乗り込みました。
やはりオールナイトで学園祭ができるというのは羨ましかったです。
ライブハウスでキューティーハニーの曲を演奏していたのがとても印象的でした。
「なるほどタマビはこういう感じか〜」
いやそれで判断するのかよ!っていう感じですが、うちの学科では世間の流行に関わりなくThe Whoが人気なように、演奏されている曲目で、ボーカルのファッションと声の張りで、ギターの歪み具合で、ドラムのフィルインで、特色や違いを感じ取っていました。
小説『げいさい』に「鼻毛ちょうむすび」というバンドが出てきますが、その頃のムサビでの一番人気といえばリリー・フランキーさん率いるLILY’S CUTE MUSIC PRODUCTION、通称リリQでした。
リリーさんはご記憶にないと思いますが同じ学科、同じ軽音の先輩だったので後年頻繁にテレビでお見かけするようになり「おおっ!」となりました。余談ですが。
そして悔やまれるのはこの晩「ねこや」に入らなかったことです。
芸大の呪縛を解く
東京芸大を本気で目指して落ちた者にはある種の挫折感やコンプレックスがないまぜになった影が付き纏うように思います。芸大至上幻想の呪縛、芸大の呪いとでも呼びましょうか。
そしてぼく自身もやはりその呪いから逃れきれずにいました。
ところが現役で空デに入った友人T曰く、
「藝大はコスパが悪いから全く選択肢に入ってなかった」
と言うのです。
「え、美大より学費安いのに?」
彼の言わんとするコスパというのは学費のことではなく、オーバースペックで難易度に対するリターンがそれほどでもない、という意味なのでした。
つまり日本の美術系トップを目指すという志よりも、東京行って美大行って青春謳歌してイケてるデザイナーになりたいわけだから、デザイン業界においてはムサビで充分ハイスペックだというのです。
そして現に彼は東京でイケてるデザイナーをしています。
その発想はなかったのでちょっと新鮮な驚きでした。
『げいさい』に登場する馬場氏のように六浪して結局美大に入れなかったというような人もいるわけで、立場を変えて見れば確かにそうなのかもしれません。
ちなみに『げいさい』には四浪して芸大に落ち、創形美術学校という専門学校に行った人の話が出てきますが、創形美術学校で銅版画を習いたかったのに親から
「専門学校はだめ、大学じゃないと」
と言われて不本意ながら女子美に行った人もいます。ぼくの奥さんですが。
ところが行ってみると女子美の教授陣がとても良かったそうです。
住めば都とか置かれた場所で咲けとか言いますが、どんな場所でも出会いやチャンスがあるんですよね。
また逆に、目指した場所に期待したものがないということもあるでしょう。
今は少子化でだいぶ入り易くなったと聞きますが、美術に関しては学歴という価値観はだんだん時代に合わなくなっていくように思われます。
その先に、海外のように入りやすいけれど出にくい大学という改革がやってくるのかもしれません。
いずれにせよ、美術教育からゴッホが出てくることはもうないでしょう。
アール・ブリュットの方がよほど純粋芸術に近く、そして儚い気がします。
バブルの時代でさえ芸術では食べていけないからとファインアートを早々に諦め、時代に密接に結びつき流されながら、そしてときに軽薄に楽しむことの必要性を正当化しながら、デザイン科という職業訓練を受けることを選んだのがぼくらなのでした。
恩人のこと
こんな長い話にもかかわらずお読みくださりありがとうございました。
最後にRのその後を少し書かせてください。
Rは端から芸大はダメ元な感じで、ムサビかタマビどっちかは受かるだろうと楽観していたのですが両方落ちてしまい、結局日大芸術学部デザイン学科に行くことになりました。
彼は油絵科志望だったらもっと受かったと思うのですが。
ファインアートでやっていくのは難しいからと敬遠してしまったのはやはり残念なことでしたが、油絵は習うんもんじゃないと知っていたのかもしれません。
いずれにせよRという相棒がいてくれたおかげで受験の孤独が和らぎとても助けられました。
余談になりますがRはもうひとつの意味でも恩人といえます。
大学2年から3年に上がる春休み、人生初の海外旅行でヨーロッパへRと行きました。旅のゴールはパリのグラン・パレでル・サロン展に展示されているRの絵を観ることでした。
ところが道中のスペインの片田舎で大ゲンカになり(というよりぼくが一方的にキレてしまい)ぼくは予定を変え、ひとりでパリに向かったのでした。
後から振り返ってみるとこの旅の出来事は人生の重要な分岐点でした。
この諍いが無ければ、日程通りに行動して楽しかったムサビ生活に戻っていたことは間違いありません。ですが結局そうはならず、コンフォートゾーンから踏み出すことになったのでした。
(その話は長くなるのでここでは割愛します)
ちなみにRはその後アメリカ人女性と結婚して奥さんの故郷に住んでいます。
もうずいぶん長く会っていませんが、絵を描き続けていることを願っています。
kyoさんの当時のデッサンや作品拝見したくなりました!
デッサンとか全部捨てちゃったんですが、おばあちゃんの部屋に飾ってあったこれだけが残ってました。
スポンジの使い方を覚えるため(笑)の空デの授業で、たしかストックフォトカタログから風景写真を選んで模写、みたいな内容だったと思います。
今見るとヘタクソすぎて恥ずかしいけど60分くらいで時間をかけずに描いてるんで勘弁してください…
その後空デの友達に訊いたら2時限連続の授業だったようで、だったら90分✕2だから3時間はかかってました!
課題を家に持ち帰りたくなくて授業時間内で終わらせるために凄く急いだのは覚えてるんだけど、記憶ってあてにならないものだなぁとつくづく…お詫びして訂正いたしますm(_ _)m
うまい❣️流石✨
.。oO( さて…これからどこを目指して船出しようかなっ…って未来を眺めて静かに船出の時を待つ…穏やかな時間の流れ感…いぃね✨ )
お戯れを…でもありがとうございます<(_ _)>
。oO(肝心の水平線がちゃんとまっすぐぬけてなくて台無し感…)
.。oO( 映画のワンシーンみたい… )
あ、aromableuさんに……そ、そう言われるのは……うれしい……(熊澤さん風)