どうしても少しだけ、個人的なことになってしまいますが…。
父が増殖人形を作った話は以前に書きました。
それとは別に、母も書生をイメージしたこのCMのコンテを描き、スタイリング等も担当しました。母にとって非常に思い出深い特別な仕事でした。
ぼくはといえば中学の頃YMOのコピーに熱中していて、さり気なくエグいコードが使われていることに感嘆しておりました。
パリに留学した際、アパートが見つかるまで滞在した安ホテルの部屋に、ボロボロの古いピアノがありました。
そのろくに調律されていないピアノで戦場のメリークリスマスのコードを探し弾きしながら、孤独を紛らわせていたものでした。
ぼくたち夫婦にとって恩人であるマイクロソフト会長(当時)の古川享さんが麻布中高時代、参加したデモで怪我をした坂本龍一さんを当時もちろんそうとは知らずに皆で助けた話、そして後年その事が判り、坂本龍一さんにハグされて「一生ついて行きます!」と思ったという古川さんのお話を、凄いご縁ですね!と目を丸くして聞いておりました。
今までのいろいろな節目でYMOの、そして坂本龍一さんの音楽がそこに在りました。
その素晴らしい功績は、ここで改めて述べるまでもありません。
東北大震災以降、坂本龍一さんはシャンパン左翼などと揶揄されながらも、躊躇せずに影響力を行使し続けました。
「ミュージシャンは音楽だけやってればいいのに」というような風潮は依然として根強いですし、例えば芸能人が国益に反するような言説の流布に利用されるのを見るのは残念なものです。
しかし坂本龍一さんの場合はそうではなく、その姿勢は学生運動をしていた高校時代から一貫しているのであって、創り出してきた偉大な楽曲の数々によって得た発言力で何を語るかは個人の自由です。
世界的な名声を得ても尚、嫌われることなど恐れず反体制的なスタンスを貫いたことはある意味非常にロックであり、音楽家としてのひとつの理想的な悔いのない境地に登りつめたと云えるのではないでしょうか。
好きなようにたくさんの作品を作り、その音楽で世界中の人々を楽しませ、言いたいことを言って、やがて去る。
そして音楽はずっと残り、これからも愛され続けることでしょう。
教授は、生ききった。
スタンディングオベーションとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
君と知り合えた事、
歌に誘ってくれた事。
大切な思い出です。
いつか、会えたらいっぱい話したい。
ありがとう。
ありがとう教授。。。
匿名さん、コメントありがとうございました。