7月4日火曜日午後1時、晴れ。迎えに来てくれたリフト付きタクシーにぼくは車椅子ごと乗り込んだ。清瀬で入院している中学時代からの親友を見舞うためだ。コロナ対策としての渡航制限がなくなり3年半ぶりのこの里帰りで、どうしても実現したかったことだった。
親友Tが脳出血で倒れたのは5年も前のことだったらしい。余命数日という状態から手術で一命をとりとめたが、右脳がダメージを受けており左半身付随になってしまった。
そんなことになっているとはつゆ知らず、しかしいくらメッセージを送っても既読にならないので仲間内のSNSで呼びかけたところ、元バンド仲間のSくんが家に電話をかけてくれて事態が発覚したときには、倒れてから既に3年もの月日が経過していた。ご家族もいろいろ受け止めきれず、誰にも知らせていなかったそうだ。
以来、施設を転々としながらずっと入院しているのだった。
(何でこんなことになったんだろう…可哀想に…)
車の窓から通りを眺める。暑さのせいか、通りに人がとても少ない。
清瀬までは1時間以上はかかる。車に揺られながら、これまでのことをボンヤリと思い出していた。
Tと出会ったのは中学に入学して暫く経ってから、一学期の終わり頃だったように思う。どういういきさつだったかはわからないけれど、放課後の教室で番長のAに何やら詰め寄られた男子が、本を床にバシッと叩きつけた。これは喧嘩が始まると思ったら、その男子は声を出さずに泣き始めた。それがTだった。
その印象的な出来事でTを認識し、音楽のこととかたわいのない話をするようになって仲良くなっていった。
Tは顔立ちが整っているけれど出っ歯で、QUEENのフレディー・マーキュリーによく似ていた。世界には3人似た人がいるというけど、なるほどこのことかと納得したくらい。
彼は車椅子を押すのにハマった。本人曰くそれは電車好き故、面白いからだそうで、ある朝予告なく迎えに来てくれて以来、中学の行き帰りを送り迎えしてくれるようになった。家まで送ってくれてTがそのまま帰ることはなく、うちでレコードを聴いたりギターを弾いたりして過ごした。もしかしたら、あまり家に帰りたくなかったのかもしれない。御茶ノ水や秋葉原へ寄り道することもよくあった。そしてそれはクラスが変っても卒業まで続いた。
こうして毎日行動を伴にする相棒のような存在になっていたのだけれど、Tのお父さんはぼくが脚が悪いことを知ると「縁起が悪い」と言ったそうだ。そんな話をぼくにしなくてもいいのに、してしまうTなのだった。
尤も、Tのお父さんがそのように思ったのはおそらく、Tが小学生のときお父さんの出張中にTのお母さんが焼身自殺を図り、幼い弟さんを道連れに亡くなってしまったことと無関係ではない気がした。
毎日車椅子を押してくれる効果なのか、Tはだんだん逞しくなり、中1のときには最下位だったという全校マラソン大会で、中2では50位と大幅に順位が上がり、中3では上位になった。肩幅も広くなっていった。
また、Tには音楽の才能があった。子供の頃クラシックピアノ、小学校ではトロンボーンを演奏していたTは中学の頃からベースというパートに興味を持っていて、チューニングを下げたフォークギターで様々な曲のベースラインを弾いていた。やがて曲さえ知っていればすぐにベースが弾けるようになっていった。
高校になってバンド活動をするようになると、Tはベースの腕前で他校の音楽仲間達からも一目置かれる存在になった。Tが弾くベースに合わせてドラムを叩くのはとても楽しくて、まるでこっちまでうまくなったかのように錯覚させてくれる。頼りになる自慢のベーシストだった。
その頃Tのお父さんが再婚したことで、やがてTは一人暮らしを始めた。いちど千駄木の部屋に行ったことがあるけれど、狭い汚部屋と化してしまっていた。Tにはどうもチグハグなところがあって、字はとても綺麗に書くのに部屋は汚い。学習能力は高いのに興味のないことは勉強しないし、やりたくないことはやらない。協調性はあまりなく、ときどき空気の読めない発言で周囲を凍りつかせる。つまり、ちょっとだけ社会性に欠けていた。
そんなTが高校卒業後の進路をどうするかという段になり、経済的にもゆとりがない中で大学進学でモラトリアム期を過ごすよりも、早く音楽の道に進むべきだよとアドバイスしたのを覚えている。彼が大学を卒業してサラリーマンになる姿は全く想像できなかったから、いちばん得意なことを仕事にした方が良いよ、って。
ただ、T自身はひとりで自分の道をガツガツ切り開いていくようなタイプではなく、常に誰かと一緒に行きたがった。とはいえその役割はぼくには無理だ。ぼくはTと異なりミュージシャンを目指すレベルでは全くないし、デザイナー志望だったので美大へ進むつもりだった。
バンドでの不確実な成功を追い求めるより、プロミュージシャンのボーヤになるとかして、スタジオミュージシャンを目指す方がTには合っているように思えた。
卒業後Tは音楽の道を本格的に目指すでもなくアルバイトをしていて、ぼくがムサビに入るとよくキャンパスに遊びに来るようになり、国分寺の家賃8千円の三畳間に引っ越してきた。進学を勧めなかった手前、大学生活の楽しい部分を経験する手助けはしたかった。ムサビのバンドに参加したり、ぼくが紹介したクラスメートと付き合ったり、Tは大学生にならずとも大学生活の楽しみというものをひと通り謳歌していたように思う。その頃Tもぼくもバンドをいくつも掛け持ちしていて、毎週末Tと参加していた横浜の社会人バンドの練習に一緒に通うのも楽しかった。
その後、Tは叔父さんのツテで緑山スタジオの大道具さんになった。それで当時の人気番組『ポッパーズMTV』の台本を見せてくれたのだが、いかにもアドリブ風なピーター・バラカン氏の自然なコメントが細かく台本に書かれていて驚いたのを覚えている。
ぼくの方はひょんなことからパリに留学することになりムサビは2年で中退したが、Tはその後もムサビのバンドに参加したりしていた。
2年間の留学を終えて戻るとTは大道具さんは既に辞めていて、ビルの窓拭きのアルバイトをしていた。
ある日、落っこちて脚を怪我したと言って、何故か病院に行かずにウチに駆け込んできたことがあった。捻挫程度だったからまだよかったものの、こういうときはちゃんと病院に行かないとダメだよ…と心配になった。
デザイン事務所に勤めていたときは忙し過ぎてそれどころではなかったけれど、退職して時間ができるとぼくもだんだん趣味のバンド活動を再開するようになった。肉体的にドラムに向いていないことはとっくに自覚していたけれど、音楽が好きだし、阿吽の呼吸のTとバンドをするのは何より楽しかった。
あるとき、Tは板前になると言う。Tをよく知る母は「ならフグの調理免許を取りなさい」とアドバイスしたが結局そこまでせず、大久保の居酒屋で働き始めた。このお店にはTの料理を食べによく行った。海外から友人が来た際には連れて行くとどちらからも喜ばれた。
この頃、Tの生活は比較的安定していた、と当時は思っていた。だが後で知ったのだけれど、じわじわカードローンの債務が膨らみつつあったらしい。
やらかしもあった。パリ留学時代に知り合った長い付き合いのフランス人の友人Yが東京赴任を終え帰国するにあたり、彼の奥さんをボーカルにライブをする予定で練習していた。だがライブ前夜になって突然Tが参加出来ないという。こういうときTは押し黙ってしまい理由をちゃんと説明してくれない。おそらく休みを取るための申請を忘れていたのだろうか。これにはホトホト困ったがもうどうしようもない。Y夫妻には申し訳ないけれどキャンセルするしかなかった。
その後、この友人Yが設立したウェブ制作会社に参加するため、2001年にぼくは妻とフランスに引っ越すことになる。
そしてその数ヶ月前、Tは恋愛期間ゼロで電撃結婚した。お相手は以前から知っていたTのバンド仲間Hちゃんで、カードローンの借金で行き詰まったTはしっかり者のHちゃんに生活を立て直してもらうために結婚を頼んだのだそうだ。
そのような特殊な始まり方をした夫婦だったので、TがHちゃんに頭が上がらなくなるのはある程度必然だった。Hちゃんにも人には言えない様々な苦労があっただろうことは想像に難くない。
会う度にTの表情がだんだん暗くなっていった。
それでもやがて二人の子宝に恵まれ、Tは社食の調理師として働いていた。
あるときTは、
「自分は学習障害だったと思う」と、自分自身で納得がいったというような調子で言う。
なるほどそう言われてみると、今までの様々な事柄に説明がつくように思えた。
ときどき帰国する度に会うTはやがて、アルコール依存症のような様相を呈し始めた。隠れてコンビニで買った安酒をがぶ飲みしてしまうのだ。強いストレスに晒されていることだけは見て取れたけれど、詳しくは話したがらない。
「もう子供のためだけに生きるよ…」とうつむきながら言うだけなのだった。
そのような訳でTが待ち合わせに来れるかどうかがだんだん心配事になってはいたけれど、2017年の5月に会ったときは一日中あちこち一緒に行って凄く楽しかった。友人Cくんの営むベース専門店に行ってベースを調整してもらったり、ファミレスで食事したり。極めつけはパリで知り合ったプロのギタリスト前田智洋くんが「一緒にスタジオ入りましょうよ」と言ってくれたことで、ぼくたちは1時間早くスタジオに入ってリハビリした。ぼくはスティックを落とさないようにするのがやっとだったけれど、Tは人と合わせるのが十年ぶりにもかかわらずちゃんと弾けていた。自分はバンドがやりたかったというよりはTと演奏がしたかったんだと改めて自覚した。そして、このときがTと一緒にした最後のセッションになった。
左半身の麻痺は回復の見込みがないとのことだった。ときどき画面越しやアクリル板越しに面会できるとTは嬉しくて泣いてばかりだそうで、奥さんが送ってくれた写真や動画のTは切ない表情をしていた。身体の自由が利かなくなり辛い思いをしているTを少しでも励ましたくて大きめの字の手紙を書いた。生きていてくれて嬉しい、リハビリは大変だろうけれど生きていればいいことがあるから、ぼくたちはまだ負けたわけじゃない、って。出血でダメージを受けたのは右脳で、左脳にある言語野は無事とのことだったので、不幸中の幸いだと思った。返事をもらえたらもちろん嬉しいけれどそれは無理だった。空間認識能力が損なわれていて文字が思うように書けないとのことだったから。それでも、お見舞のお礼を書いてくれた。
「ありがとう」と読み取ることができる。ゆっくりでいいから、意思の疎通ができるように回復してくれれば。そうしていつかまた懐かしい思い出話とかできるようになれば、と願った。
しかしその後Tの容態が悪化してしまう。脳出血の後遺症で脳が萎縮し、食事を摂れなくなり枯れ木のように痩せ細ってしまったそうだ。それで老健施設から現在の療養型の病院に移り、ようやく容態が安定したとのことだった。
前出の番長Aは小学校から一緒だったTのために何かしたがっていた。その番長Aが発起人となって、元生徒会長Y、既に子育てを終えたベテランビジネスウーマンM、そしてぼくに声がかかり、どのように支援したらいいかSNSで話し合った。それで中学の同級生たちに声をかけてTの昔の写真を募集してアルバムを作ること、そしてもちろん強制ではなく参加自由で一律2千円のお見舞いを募集することになった。なるほど2千円というのは絶妙な設定で負担にならないし、多めに送金してくれた級友もいた。更に切りの良い金額になるようにAが大きな額を出してくれて、以前送った額の3倍のお見舞金になった。口も出すけど金も出す面倒見のよさはさすが番長。AにとってもTは小さい頃から知っている幼馴染なのだ。子供時代の貴重な写真も集まり、Mが手際よくアルバムに編集してくれた。中にはTのお母さんが写っている写真もあった。初めて見るTのお母さんは綺麗なひとだった。
その他にも同級生Nさんはご著書『失語症からの言葉ノート』を送ってくれた。Nさんのお父様が脳梗塞から失語症になられた経験から生まれた本で、きっとTの助けになるに違いない。
そして今は校長先生をしている同窓生Wの結婚披露宴で演奏するTの姿を収めたビデオをN夫が編集してくれたけれど、面会時に見せる時間がなさそうだった。というのは面会はひと月に一回だけ15分間しか許されておらず、しかも2名ずつ2組に分かれなければならないそうで、実質7分程度しかない。
面会予約は奥さんのHちゃんが手配してくれた。以前は家族の面会すらもままならず、家族以外は面会不可だったのだから、コロナ禍で入院した患者さんや老人ホームの入居者さん達はどんなに寂しかったことだろう。これから正常化していくことを願うしかない。
ようやく到着してリフト付きタクシーから降りると、Hちゃんと先に到着していた同級生Eくんが待っていて出迎えてくれた。会うのが久しぶりでHちゃんとハグする妻。同級生Eくんも以前から面会を望んでいて連絡を取り合っていた。Hちゃんはこの面会をとても喜んでくれた。何より、Hちゃんが元気そうで安心した。
先ずHちゃんとEくんが先に面会して、その間は離れた場所で待機しなければならない。やや時間が押して交代となり、Tのベッドサイドまでダッシュで車椅子を漕いだ。
6年ぶりに会うTはかなり痩せてしまってはいるけれども血色は良さそうだった。目線はしっかりしており、ぼくや妻を認識はしてくれているようだ。
「N中のみんなが心配して応援してくれているよ」と話しかけながら、預かってきたお見舞いの品々を見せる。
けれども、Tの表情から喜怒哀楽を読み取ることができなかった。久しぶりの再会の喜びとか、こんなことになった哀しみとかでもなく、無表情なのだ。思うように言葉を発することもできない様子だ。見せてもらっていた動画よりもコミュニケーションを取るのが難しくなっているように感じた。
Tは動く方の右手でしきりに天井を指差す。後になってそれは天井の照明を眩しがっているのだとHちゃんが教えてくれた。
時折ホワイトボードに何か書こうとしてくれるのだけれど、残念ながらわからなかった。判読に慣れたHちゃんでも、書き順を見ながらでないとわからないそうだ。じっくり解読してコミュニケーションを取れる時間がもっとあればいいのに…。
期待したようなリアクションが得られなくてもそれは仕方ない。だが例えば月に一度の奥さんとの面会を短くさせてしまったことに不満を表してくれるのでもいいから、Tの感情の動きを見たかった。ヒトは勝手なもので、せめて負のリアクションでもないと不安になる。何も読み取れないとことがショックだった。
看護師さんにリハビリについて尋ねると、この病院はそこまではなかなか手が回らず、週に一回程度のようだった。
もっとずっと危なかった容態を見守ってきたHちゃんが、これでもずいぶん安定したのだということを安堵した様子で話してくれたので、ショックを受けたことが顔に出ないように気をつけた。そうだよ苦しんでいないならいいじゃないか。
お互い何度もお礼を言い合って、病院を後にした。
実を言うとそれ以来ずっとブルーだ。
ぼくたちは身の丈に合わないような大きなものを望んだわけではなかった。Tがその持てる才能を人生を向上させるために活かせなかったことは勿体なかったと今でも思うけれど、ささやかに幸せに暮らせればそれで良かったし、Tにだってそうなる資格があるはずだ。
なのに、自分だけパリで平穏に暮らしていることが何だか恥ずかしくなってしまったのだ。
自分はやっぱりTにとって縁起の悪い友人だったのではないか。Tが成功するように手を貸すことができたらどんなに良かっただろう。もちろんぼくにはTの人生をどうすることも出来はしないのだが、その無力さも含め、自分が嫌になる。いや実はもっと出来ること、取るべき態度やかけるべき言葉があったんじゃないのか…。
漠然とした後悔ばかりが思い浮かぶ。
ぼくは遂に負けた気がした。
次回の帰国の頃には制限なく普通に面会できるようになっていることを期待したい。
そして通じようが通じまいが、くだらなくて懐かしい話をし続けたい。思い出して笑ってくれるようになるまで。