森瑶子の思いで 4
ミセス・マコ・ブラッキンのご招待の後は暫く落ち込んだ。 80〜90%もの時間を使わないと支えられない仕事人生とは・・・体力も才能、であるなら、私は明らかに才能不足である。
諸手を挙げて息子の代理母を引き受けてくれた実母に依存し過ぎている自分、振り向かずに出て来た家庭、どれ一つ自慢出来るものはなかった。 何と不本意な人生を送っていたのだろう。 自立の代償は大きかった。
そして時を同じく、マコも家庭の中で心に広がる飢餓感と絶えず闘い続けていた事はその後の著書から明らかだ。 ただ彼女の偉さは仕事を持った後も家庭・子育ても両立させていた点にある。
ある日、10歳の誕生日を目前にした息子が交通事故に遭った事で私の不自然な日常生活にピリオドが打たれた。 事情があったにせよ5年間の永きに渡って子育てを放棄していた自分自身が罰せられたのだ。 最も愛すベき者を犠牲にしてしまって・・・。
不幸な出来事には違い無いが、夢中で看病した二年間が、奇跡的に私の本来の目的である子育てと、休息の必要性を教えてくれたのだ。 子供から学ぶ事は大きかった。 事故は重かったが生命を取り止めたのは、息子だけでなく私自身もだった。
完全に仕事を離れて病院に付き添ったのは10ヵ月間だったが、仕事の再開を奨めてくれたのは息子と病院の先生方だった。 レギュラーの仕事のオファーもあったのだが、明らかに以前と違う気持ちで再開することができ、しかも楽しめたのだ、心に余裕が持てるようになったのかもしれない。
直ろうとする子供の生命力の凄さ、沢山の良き人々、善意のやり取りが病院に居る間に私の価値観を変えたのだ。
息子の二年間の入院生活で学んだ事は待つ、忍耐(人生の4耐の大切さ)であった。
人生のターニングポイントは誰にでもあるものだ。 息子の交通事故をきっかけに、身の丈に合った生き方をと青山の事務所を閉め、自宅で子育てと仕事の両立へと歩き始めた。 私の休んでいた間に業界に新しい若い才能も沢山出て競争社会の厳しさを実感させられたけれど、生きる意味を少しだけ会得した私は、焦りもせずに淡々として現実を受け入れる覚悟だった。 母親の安定した精神状態のせいか?中学に入った息子の回復も目ざましく車椅子での送り迎えも最初の内だけ、級友が来てくれるようになり、暫くして松葉杖で歩けるようにもなっていった。 バンドを組んだり絵を描いたり、どんな境遇になっても喜びを見出せる人間の強さを知り幸せだった。
私の両親の協力は大変なもので1にも2にも息子を優先順位の頭に置いて、成長を見守ってくれていた。 年老いてからの試練にも関わらず両親は気丈だった。 戦争を体験して来た人の強さなのか? この時期はあまりに一生懸命生きたので、記憶が定かでは無いのが今となっては笑い話なのだが、前に進む事だけ考えていたので楽しい事の方が多かったようだ。 命が有る事への感謝! このひと言だった。
女友達にも変化が起きていて、マコは森瑶子として「情事」を初めて書き「第2回すばる文学賞」を受賞! 作家デビューを果たし主婦から作家となり脚光を浴びるように成っていた。 作家森瑶子! 天職のように似合っている。
2回程、何かのパーティーですれ違うだけでゆっくり逢う機会はなかったが、苦しんでいた時代が嘘のように生気を取り戻したのだ、嬉しかった。
80年代に入り作家森瑶子から電話を貰ったのは、Mから番号を聞いた彼女が、「同窓会みたいに昔の仲間と集まろう!」という事でだった。 同時にアメリカから一時帰国している年上の人の歓迎会も!計画に入っていた。 私達が各々の幸せを噛み締めている時期の再会だった、歓迎役を仰せつかったのだ。
取り急ぎ宿泊先の京王プラザホテルの部屋にラベンダーの大きな花束を届けさせカードを添えて「お帰りなさい! 永遠の先輩へ」と記した。 仕事の都合で出迎える事は出来なかったからだ。 「あれは、ヒットよ、日本の男は気が効かないから、女がやるしか無いわね」と作家森瑶子に誉められ、年上の人には大感激された。 「日本のホテルも気が効くな!と思ったら貴女なのね、嬉しいわ!」 低い声はちっとも変わっていない、懐かしさに胸が一杯になった。 アメリカで離婚し再婚こそしたものの、異国での苦労をねぎらう術を他に思い付かなかった私の年上の人に対する友情の精一杯の表現だった。 何週間かに渡って色々な場所でメンバーを入れ替えて会食をした。 マコはもはや立派な作家森瑶子で眩しいくらいだったが当人はほんの少しはにかんでいるようだった。 帰国した昔の恋人へ見せるMの心遣いは滞在中献身的で感動的でさえあった。 Mも年上の人も仲間達も皆、作家森瑶子の誕生を心から祝い、終わる事が無いかのような宴会が何日か続いたが、決まって10時30分になると彼女は立ち上がり「門限だからお先に失礼するわね、皆さんはどうぞ楽しんでいらして」と立ち去るのだった。 例外はなかった。 家庭人として己を律する態度は尊敬に価するものだった。 皆熱い視線を向けてそんな森瑶子ことミセス・ブラッキンの背中を見送るのだった。 既に60歳になろう年上の人を、ヤンチャに戻った私はインクスティック等の夜の六本木に連れ出すのだがドライバーはMだった。 昔私が連れて行って頂いた分を一気にお返しする様な勢いに、2人の目が笑っていた。