ピアニスト泣く

実のところ、既に子育てが終わっていてホント〜〜〜に良かったと思ってる。
今もし中学高校生の親だったら、現代の価値感が理解できないから家庭内断絶か、反対に社会性を著しく欠いて親子ごと落ちこぼれていたかもしれない。
素直な文と絵で気持ちを表現している多聞君の御両親のように彼が14歳で学校をやめても泰然としていられるか疑問だし、海外へ早い時期に逃げ出していたかもしれない。良いとか悪いとかは別にして今の日本のシステムに順応してやっていく自信がもてないのだ。 何故なら息子の中学入学当時(20数年前)でさえ随分学校側と争った記憶があるからだ。

病院からの勧めで面接に行った養護学校の先生が「脚が不自由!だけの理由で施設に入れるなんてとんでももない」と断固反対されたので、もっともだと思い、事故退院後ある区立中学に入学させてくれるようお願いに行った。
私の子供時代のように頭の良い子も悪い子も身体の丈夫な子も弱い子も一緒くたになって学ぶほうが良いに決まっているが、当時の風潮は障害を持つ生徒は特殊学級や訪問学級、健常の生徒でも偏差値で分類(差別化)するのが主流だった。当然受け入れ側が快諾しないと普通中学への入学は難しい。 件の教頭先生は面接はしてくれたもののろくに話しも聞かぬうち、一言
「ここは文京区でも有数の進学率を誇っているので、おたくの息子さんが一人入学することで志気が落ちる嫌いがある」とにべもなく宣った。
「一体それは何故ですか?」
驚きのあまり理解できず問いかける私に、かの教頭は「階段の上がり降りの手助けや、しなくともよい遠慮のようなものを生徒達が強いられ、気が散るから」と全くの真顔で答えたのである。
そんな事は電話で言えば済む、わざわざ呼びつけてその気になった息子の前で喋る教頭、おし黙って口を挟まぬ他の先生連の人間性を疑った。 そんな先生の許に息子を預ける気は毛頭ないので席を蹴立てて・・・と行きたい所だがそこは不自由なのでノロノロとインチキ学校を後にしたのは言うまでもない。

唯一受け入れてくれた中学は社会教育館が併設されているためエレベーターがあるものの、当時は不良校として知られていた。問題が無かった訳ではないがそれは生徒ではなく(むしろ彼等は最高に人間的だったが)先生達の恐怖心にあった。
受け入れてはくれたものの学校は事あるごとに「責任が取れないから」という理由で眼鏡のレンズにまで文句をつけてきた。理由は転んで割れると危険だとのこと、そんな事もあろうかとプラスチックレンズである事を説明したり。やっと松葉杖で歩けるようになった段階で、たまたま転んだだけで呼び出され今後車椅子でなければ登校不可と厳命されるに至った。
最後は念書を書く提案をし、「何があっても絶対に学校に文句を言いません」と一筆書くことでやっと教師の顔に安堵の色が広がった時は、むしろそこまで責任の所在に追い詰められている教師の職業が気の毒に思えたほどだった。

息子の学校の送り迎えはタクシーに車椅子を載せて送っていった。そのタクシーの運転手さんも5人に1人くらいしか心良く出し入れを助けてくれる人がいず、毎朝祈るような気持ちで車を止めていた。
普通の元気な母親ならなんでもないことが一々障害物として立ちはだかる日常の中で、とにかく頑張って送り迎えの時間を捻出していたのだ。
そのうち級友が車椅子を押して家まで送ってくれるようになり「万歳」を連呼するほど助かった。 あんまり私が喜んでお礼を言うものだからその友人は朝も寄ってくれて雨の日も風の日も送り迎えしてくれるようになり、何時でも二人一緒のコンビをとうとう卒業の日まで続けてくれたのだ。


その友人トンべ・・・は母親と弟を悲劇的な不慮の事故で失って我が家とは逆の意味での父子家庭だった。「悪いね」と私が言うと「いっちゃんを送り迎えするのが生き甲斐になっちゃったから」と呟く、そんな無口な子だった。
最初のマラソン大会で全校最下位だったトンベも車椅子を押してくれるうちに逞しくなって、中二のときの大会では50位になったと聞き私も嬉しかったのを覚えている。
息子の部屋で音楽を楽しみ、モデルガンの交換をする同級生の何人もみんなトンべ同様、良い子達だった。足の踏み場もないほど息子の部屋は何時も賑わっているのを横目に打ち合わせに出かける私は幸せだった。そんな賑わう我が家を家庭訪問の時・・「悪の巣窟」と表現されたときは耳を疑った。えっ、えっ何それ?凄い表現である。モデルガンの交換がいけなかったらしい。
磨いたり分解したり・・・想像するだけでも男の子らしい遊びが危険視されたのだろう。まだ入院していた頃、息子を励ます意味で主治医の先生や患者さんがプレゼントしてくれたものもあり捨てるわけにはいかないが、巣窟と言われては仕方がないので丁寧に油紙に包んで物置に保管することになり悔しがるプレゼント主のひとりである母を説得した・・・無難、平均的、没個性、事なかれ主義の時代だった。
その当時の教師の表情はかの教頭といい皆無表情だった。私の記憶では「笑ったら損だ!」とでもいうように感情のない顔つきだった。 生徒はおろか先生にも勤務評定なる制度が導入されはじめていたころだ。
音楽部の中年女性教師が唯一ユニークな存在で、当時音楽室にはドラムセットがありドラムの基礎を教えてくれたそうだ。その先生の指導で音楽についての作文コンクールでラジカセをいただいたこともあったっけ。 早速バンドを結成し、ブンスカジャンスカ♪騒音をたてる部屋の隣で当時60代の父母は何ひとつ愚痴をこぼさなかったのは驚きと感謝である。家に居るときは「うるさいな〜下手くそ!」と年中怒鳴っていたのはむしろ私だった。
そんなわけで厳しいキャリアウーマンの私は煙たがられていたのに、仕事へ出かける日は全員に手を振ってもらって機嫌よく意気揚々と出かけていたのだが、ホントは体よく追い出されていたのかもな〜、たぶん。 息子の友達は何かと手伝わされて悲鳴をあげていたが、気持ちよく働いてくれた。スピーカーの配線、棚の組み立て、椅子の上げ下ろし等々、中学生になると皆一人前だったから人様の子をビシバシ使ったけど、かわりに御馳走は忘れなかった。

3年間がアッというまに過ぎ卒業式を迎える日がやってきた。
卒業証書を手に意気揚々と戻った二人はガレージで車椅子をクルクル回転させて余韻を楽しむように笑い声をあげていた。
「トべちゃん!校長先生に誉められた?」
私が声をかけると「いいや!?」怪訝そうにトンベが振り向むく。
「なら、私が誉めてあげるね!・・・3年間車椅子を押してくれてありがとう〜」
大きな声で私は言いながら用意しておいたソニーのウォークマン、新製品出たてホヤホヤを奮発、撮影した時の特権でカメラマンに依頼して購入しておいたそれを二人に手渡し、深々お辞儀をした。咽から手がでるように嬉しい品を両手にトンベはジッと固まっていた。
その夜はじめてトンべのお父さんからお礼の電話をいただいて、あらためて長い間のお礼を伝える事ができたのだ。「とんでもない、こちらこそ!」

それにしても朝夕車椅子を押す少年を卒業式に誉める校長も教頭も担任さえいない不毛な学校時代、憤慨したのを覚えている。全校生徒の前で誉めてほしかった。心の傷を抱える少年だったからこそ続いた他人への思いやりを教師に気づいてほしかった。
無視することで[そんなことはあたりまえ]とでも教えたつもりなのだろうか?感動しない人間は何一つ新しく学ばず、まして教える事など出来ないのに。


都立高校の受験を認められず一校だけ受けてみた私立にあっさり落ちた息子は絵の学校に通いながら大験を受け、国語が得意だったトンベは二松学舎高校へ進学した。バンド活動はずっと一緒にやっていて、二松学舎の甲子園出場が決まってブラスバンド部員のトンベが遠征してしまい、ライブが近い息子達はやきもきしながらトンベの帰りを待っていたが決勝まで進むにいたってはバンドのみんなで父と一緒にうちのテレビにかじりついて応援していた、なんてこともあったっけ。
その後ふたりの進路は別々だったが、美術大学へ進み下宿するために車の免許と共に家を出た息子の近くにトンベも部屋を借りてアルバイトしながら進むべき道を模索しているようだった。息子の学校のバンドにトンベも自然に参加するようになり、どんな新しい友人ができても常に息子の近くには当然のようにトンべの姿があり、誰もが彼を受け入れうちとけていた。
中退してパリへ発つ日、いちばん沈んでいたのはトンべだったかもしれない。仕事を休んで見送りに行ってくれた彼の穴が空いたような後ろ姿を思い出す。

苦痛としか言えない青春ドラマが二人を襲い、幾度となく壁にぶつかり挫折を経験しながらも二人で打ち勝ち、出会わなかったら一生落ちこぼれていたかもしれない二人が車椅子を通じてそれぞれに人生哲学みたいなものを学んで大人になって、仲間に遅れること8年くらいでなんとか自立。立て続けに嫁とりを果たしたのが今年の二人の最高のイベントだった。
トンベが3月、息子が5月。披露のビートルズライブで無表情にベースを弾いていた男がラストでピアノをひきながら泣いているように見えた、とミカちゃんの日記にあったけど、解るよ、トンベ君!ここまで辿り着くのは夢だったよね〜不器用な二人にとって。
とうとう「家庭」を築くとこまで来たんだ。今では仲間のなかで一番綺麗な部屋に住んでいるなんて昔を思うと奇跡だね!
でも私は知っている、着実に夢に向かって這うように前進してきた君を・・・だから
君の涙の意味を一番知っているのは、もしかして私かもしれない、もう一度言うね。ありがとぅ。
そして一番君に厳しかった私を許してね、何故なら下手な母性は君を支えている尊厳を侵すこととなる、そんな思いで見ていました。

こうして考えてみると結局いつの時代も子ども達が成長していくには、ただ学校というシステムに依存するのではだめで、教師より友達の力が大きいのだろうか?
どっちにしても割があわないな、先生って。不登校を学校のせいだ、と叫ばれている今、父兄であることにも碓たる自信を見出せないような私が、言っても何も始まらないが。


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